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「宮本武蔵」の人生は修羅場の連続!天下無双の剣豪武蔵の生涯をわかりやすく解説

3-5今や武蔵は超有名人!エリート大名との勝負

寛永15(1638)年には、大名との仕合にも応じています。相手は家康の孫というエリートの、出雲松江藩主松平出雲守直政です。彼は、大坂冬・夏の陣で、30もの敵の首を討ち取ったつわも。天下無双の剣客武蔵の腕を見たいと、直政本人はもちろん家臣にまで仕合をさせたようです。

この頃の武蔵は、55歳ともう老人の域に達しており、見世物としての仕合を行っています。というより、御前仕合なので、命までは奪うことはできなかったからです。でも、立ち会った相手には全力で戦う武蔵に、敵は徹頭徹尾の如く打ちのめされます。仕合に負けた直政は、二天一流の凄さに魅せられ、最後には武蔵の門弟となりました。

3-6天下無双の男!柳生新陰流の達人氏井弥四郎と戦う

放浪の旅を送り、孤高の剣客となった武蔵は、寛永17(1640)年の57歳で最後の御前仕合に挑みます。相手は因縁の柳生新陰流の達人氏井弥四郎でした。氏井は、武芸と学問に長け領民から慕われる名君細川忠利の家臣。忠利はある日、柳生流の氏井と二天一流の武蔵のどちらが強いのかを知りたくなり仕合を申し付けます。

観客は忠利だけで、仕合後に勝負の批判はしないとの約束だったとか。互いに睨み合い、氏井が仕掛ければ武蔵が素早く払いのけ、氏井が3度目の仕掛けをしてもまた抑えられるといった具合で最終的には武蔵の勝ちでした。忠利は、氏井との仕合後自らも手合わせを願い出ますが、もちろん武蔵の圧勝。二天一流(二刀流)の素晴らしさを知り、この兵法の開祖!宮本武蔵から二天一流を学んだといわれています。

4.晩年の武蔵

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武蔵は13歳で剣客デビューを果たした後、29歳まで武芸者との仕合をするため放浪します。その後は50歳まで兵法を追求しながら大名に仕えました。全国統一される戦国の激動時代を「二天一流」という最強兵法を用い剣豪として生き、晩年は江戸幕府が確立し太平の世を養子や弟子に囲まれ平穏に過ごしたようです。

4-1手先が器用で、芸術にも長けていた

57歳から肥後熊本藩主細川家の客分となります。また、兵法確立後の晩年には、剣術鍛錬を基に武士の生き方を説いた『五輪書』を、岩殿山霊巌洞にこもり1年半の歳月をかけ、死の1週間前に書き終えたとか。しかし、実際は未完成で、「地・火・水・風・空」の5巻の内、最後の「空」は二代目寺尾孫之丞勝信が書いたようです。この洞窟内では、素晴らしい『不動明王』の彫刻も作っています。

『五輪書』の他に、国の重文となっている『鵜図』、『枯木鳴鵙図』、『紅梅鳩図』などの絵を描き、彫刻や作庭、俳句を詠みながらのんびりと過ごしたようです。絵画においては、確認されているだけで10点あるといわれています。木剣などの武器を自身で作るのと同じく、芸術に携わり内面に向き合うことは兵法修行の一環だったようです。

4-2お墓は全国6ヶ所に

正保元(1644)年11月に体調を崩し熊本城下で静養をするも、翌年5月19日に残念ながら、胃癌で62歳の時に逝去しました。亡骸は甲冑を着た姿で土葬されますが、9年後の承応2(1654)年に掘り起こされ火葬されたのです。これは、全国にいる門弟が、遺骨を欲しがったからでした。

有名な剣豪として、また政治面でも優れた能力があった武蔵は、多くの大名から仕官の話を貰っています。天下無双の兵法者として生きたかったこともありますが、江戸時代にはお家取り潰しが横行しており、宮本家を繁栄させたいとの思いもあったようです。自分は剣客のままで、3人の養子など宮本一族を仕官させ、お家の安泰をはかったということでしょう。

養子の中でも小笠原家から4500石を与えられる大出世(武蔵の分も含んでのようですが)を成した伊織は、正保元年に小倉手向山(北九州市)に武蔵の碑を建てています。この石碑に書かれた碑文は、生前武蔵と親交の深かった「春山和尚」のものだとか。機会があればぜひ。

名立たる侍たちを惹きつけた、二天一流の開祖宮本武蔵は剣術探求に生涯を捧げた

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命を懸けた仕合に勝ち続け、武芸を追求し語りの境地に至った武蔵だからこそ、400年経った今でも「武芸の極意」を伝授できるのでは?彼こそが本物の剣豪であり、現在も不動の人気を誇る偉人となったのでしょう。

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