3-1歴史に名を残す名勝負!巌流島
慶長17(1612)年4月13日に行われた「巌流島の戦い」は、武蔵が29歳の時ですが、彼を語るには外せない「佐々木小次郎」との天才同士の名勝負なので、最初にご紹介しましょう。
小次郎は刃渡り90cmもある長剣(物干し竿)を使う巌流派を自ら興し小倉藩兵法指南役に抜擢されていました。頭上から一気に振り下ろす「燕返し」の技で日本一の剣士として名を馳せた、小次郎と「日本一の名」をかけた決闘だったのです。
決闘の日には、関門海峡に浮かぶ無人島巌流島周辺では、厳戒態勢が敷かれ、関係者以外が島に訪れることはもちろん、壇ノ浦に船が航行することさえ禁止。弟子の振之助と細川藩士2人と島へ向かう小次郎は、落ち着いておりパワーが漲っていたようです。
武蔵も船の上では櫂を削り小太刀を作り、落ち着き払っていました。武蔵の作戦で、島に着いたのは、3時間遅れてのこと。しびれを切らし噴火寸前の小次郎が、「遅参などはもっての外!臆したか。いざ!」と、鞘を波間に投げたとか。それを見た武蔵は、彼が平常心でないことを察知し「小次郎破れたり!」と叫びます。
小次郎が一刀斬りかかったとき、翻した武蔵は小次郎の頭を木太刀で強打し決着がつきました。崩れ落ちた小次郎を見て、場の雰囲気は一気に凍りついたとか。すぐに手当てをすれば、間に合うといい、武蔵は船に乗って去りました。この島が「巌流島」になったのは、小次郎の「巌流派」からのようです。
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ちょっと雑学
決闘の数日前から長岡佐渡の屋敷に逗留するも、小次郎が細川藩の船で島に向かうと知り、細川藩の家老だった佐渡に迷惑をかけないよう、前日になって下関の回船問屋小林太郎座衛門宅に身を寄せます。武蔵は、生死をかけた決戦の前でも、周りを気遣える人物だったようです。佐渡は、藩主忠興公認の決闘を武蔵が反故にしたら、切腹も辞さないと決めていたようですが…。
3-2まさに武士の真髄!吉岡兄弟
関ヶ原の戦いから4年後の慶長9(1604)年の、21歳の武蔵は武者修行にでます。最初に訪れたのは、足利将軍家兵法師範を勤める京の名門「吉岡道場」。吉岡道場の名は日本中に知れ渡っており、その当首清十郎に勝利し名を挙げようとしたのです。
高札をあげ世間の注目を浴びる中、京都郊外の蓮台野で正式な仕合が行われました。またまた、遅刻して訪れた武蔵に、イライラした清十郎は完敗。木刀で肩を砕かれ、二度と剣を持てない体になったようです。兄の敵と名門吉岡家の名を汚されたと、弟の伝次郎が果たし状を武蔵に送ります。蓮華王院裏地で開催。向かってくる巨漢の伝次郎を背負い投げにし、倒れた伝次郎の頭に木刀で一撃をくらわし即死させました。
吉岡の地に落ちた名誉を取り戻すべく、清十郎の嫡子又七郎を名目人として仕合を挑みます。叔父から立っていればいいといわれた幼い又七郎は、鬼の形相の武蔵を怖がり木の陰に隠れるも、すかさず又七郎の首を討ち取ったのです。前髪を落としてない幼子であれ、大将となればその首を取るのが武士の礼儀としたようです…。向かって来る門弟たちをバッサバサと切り崩し、無傷で立ち去りました。武蔵の被害は、矢で射抜かれた小袖の小さな穴ひとつだけだったようです。
3-3名門「宝蔵院流槍術」に挑む!奥蔵院道栄
木刀VS槍の熾烈な決闘として知られるのが、この戦いでしょう。京で吉岡一門を破った後は、奈良へ行き「槍の宝蔵院」と名を轟かせていた興福寺の小院を目指したのです。道場では、命知らずの武芸者を、強靭な肉体の僧が槍一撃で倒していました。
武蔵の相手は、奥蔵院道栄という法師です。武蔵は短い木刀を持ち手をだらりと下げたとき、奥蔵院は黒光りの槍を構えます。睨み合いがつづき、奥蔵院が突きを放つと同時に、武蔵は頭上高くから木刀を振り下ろし命を奪ったのです。黙祷を捧げ宝蔵院を去りました。
51歳の武蔵は、小笠原家の剣客でした。再び宝蔵院流槍術の使い手と対戦。小笠原の家臣高田又兵衛と仕合をします。武蔵を攻撃し優位と見えた、高田はいきなり「参りました。」と負けを認めました。長い槍で何度も突くもかすりもしない、武蔵の強さを納得したからでした。
3-4名門柳生家の敏腕家臣との激突!
名立たる武芸者との仕合に勝ち続け放浪する武蔵が、江戸に着く頃には有名になっていました。柳生家の家臣大瀬戸隼人と辻風某という侍が、武蔵に仕合を申し入れたのです。だらりと手を下げたスタイルですが、体中から殺気の漲る武蔵に、相手は恐怖を感じ先に打ち込んでしまいます。
彼らも同じで気に圧倒され手をだし、武蔵が打ち簡単に勝負をつけたのです。特に辻風某は、走る馬の首を掴み止めてしまうほどのバカ力の持ち主でした。柳生家の家臣2人を相手に勝った、武蔵の名声は不動のものとなりつつありました。