斉昭、失意の死
1857年に斉昭の庇護者でもあった老中阿部正弘が死去すると、風向きは斉昭にとって真逆となりました。まるで狂犬のように攘夷思想をひたすら繰り返す斉昭に、他の幕閣たちはもはや辟易していたといえるでしょうか。
その後、幕府の実権を握ることになったのが彦根藩の井伊直弼でした。第14代将軍に紀伊徳川家の徳川慶福を推す井伊と、自らの息子一橋慶喜を推す斉昭との間で争いが起こり、斉昭は敗れてしまいます。この結果、井伊が大老に就任したことによって斉昭の立場は微妙なものになりました。
さらに斉昭の運命を決定付けることが起こります。政治の実権を握った井伊が、朝廷になんの相談もなく勝手に日米修好通商条約を締結。怒った斉昭ら諸侯が詰問のために江戸城へ登城すると、無断で登城した咎によって再び謹慎処分を下したのです。
時の孝明天皇は幕府へ再三攘夷を迫っていましたが、いっこうに動こうとしない幕府に業を煮やして斉昭の元へ密勅を下していました。
「動こうとしない幕府に代わって、水戸徳川家を筆頭に幕政改革を断行せよ。そして早急に攘夷を決行するように」
この密勅が井伊の知れることになったため、斉昭は永蟄居を命じられることになりました。これによって斉昭は再び幕政に関与することができなくなったのです。
1860年、憤慨した水戸脱藩浪士らによって井伊直弼が暗殺され、斉昭が幕政に返り咲くかに見えましたが、その年の8月、斉昭は心筋梗塞で斃れてしまいました。享年60。日本の歴史にひときわ異彩を放った人物の死でした。
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輝きを失った水戸藩
その後、水戸藩が再び歴史の表舞台に立つことはありませんでした。斉昭の死後、保守派と改革派が藩内で相争い、統制力を失っていったからです。その過激な尊王攘夷思想は水戸天狗党事件や弘道館戦争などを次々に引き起こし、藩内の貴重な人材は失われていくことに。やがて薩長を中心とする新勢力によって主導権を奪われ、歴史からその姿を消していくことになりました。