幕末日本の歴史江戸時代

徳川御三家でありながら個性的な藩主を輩出した「水戸藩」とは?わかりやすく解説

好奇心のかたまりだった光圀公

「水戸黄門」といえば、いつもニコニコして温和なイメージがありますが、実際の光圀はそんなことはなかったようです。若年の頃は父同様にヤンチャそのもの。異様な衣服に身を包んで町を闊歩したり、吉原の遊郭に通い詰めたり、時には辻斬りなどという犯罪めいたこともやってのけていました。

また藩主を退いて隠居してからも、自分の重臣を手討ちにしたり、「大日本史」の編纂事業のために藩財政を湯水のように使ったりと、かなりアクの強い人物像が浮かび上がってきますね。

ところが1645年、18歳を迎えた時に転機が訪れます。たまたま司馬遷の「史記」「伯夷伝」を呼んだ際に深く感銘を受けたそう。物語に登場する伯夷兄弟は決して人を憎まない道理や筋目を重んじた人たちです。そのような生き方に自分自身の境遇を重ね合わせたのでしょう。これ以降は行いを改めることになりました。

光圀は儒学に対しても造詣が深く、当時長崎に滞在していた中国の儒学者朱舜水を水戸へ招聘したことでも有名です。この朱舜水の教えが光圀に大きな影響を及ぼしたことは間違いないところでしょう。元々好奇心が旺盛だった光圀は、朱舜水からの勧めで様々なことにチャレンジしています。

朱舜水から本場中国の中華麺の製法を伝授され、日本で初めてラーメンを食べた人として有名ですし、薬味は「にら、らっきょう、ねぎ、にんにく、しょうが」そして中華ハムも添えられていたそうですから、本格的なラーメンだったと思われますね。

また光圀自らうどんを打ち、家臣たちにふるまっていたといいますし、1657年には有事に備えて納豆の製造を奨励していますね。たびたび水戸藩の食膳に上がっていたそうです。そう考えると水戸納豆の創始者は光圀だったのかも知れませんね。

天下の副将軍、歴史書を編纂する

光圀は「副将軍」とも呼ばれていますが、実際には副将軍という役職は存在せず、父頼房同様に江戸に在府することが多かったためと思われますね。とはいえ老中などの幕閣も一目置く存在感だったらしく、天下のご意見番として畏怖されていたことでしょう。

5代将軍綱吉が「生類憐みの令」を出した当時、わざわざ野犬の皮を剥いで将軍に献上するなど、まるで政治に対する当てつけのような行為も行っていました。それでもなんのお咎めもなかったということは、さしもの幕府も光圀の存在感を無視できなかったということになりますね。

そんな光圀が生涯を掛けて取り組んだのが歴史書の編纂事業でした。若年の頃に読んだ「史記」に影響を受けた彼は、やはり日本にもきちんとした歴史書が必要だと考えました。藩主になる以前から自邸に編集局を置き、徐々にその人数を増やしていったといいます。

多くの家臣たちを全国各地へ派遣しては古い史料を検証させ、過去の歴史書との相違や矛盾点を突き詰め修正を加えていきました。こういった動きがのちの「水戸黄門の諸国漫遊伝説」へと発展していったのでしょう。

ところが歴史書の編纂事業はお金の掛かるもの。一説にはその費用だけで藩財政を傾かせるほどのものだったといいます。藩の発足当時から財政難を抱えていた水戸藩は、幕府や大商人たちから借財せねば立ち行かないほどの貧乏藩へと転落していきました。

光圀が編纂した歴史書は広く「大日本史」として知られていますが、それ以前の風潮は南朝方についた人々を朝敵だと見なす考えでした。しかし光圀は南朝を正統王朝として認め、後世に大きな影響を与えることになったのです。

尊王攘夷で揺れる水戸藩~徳川斉昭の時代~

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光圀以降の藩主たちは、おおむね英邁な人物が多く、藩政改革を積極的に行って財政を立て直そうと努めていました。そういった経緯もあり、質実剛健な水戸藩の家風が醸成されていったといえるでしょう。やがて幕末を迎え、日本全国が尊王攘夷開国かで揺れる頃、水戸藩が歴史の表舞台に登場します。

有能な人材をどんどん発掘する斉昭

徳川斉昭は第7代藩主治紀の三男として生まれました。天下の御三家の生まれとはいえ、他藩に養子に出されるわけもなく部屋住みの身分で、兄に万が一のことがあった時に備えるバックアップのような立ち位置だったと思われます。

斉昭は幼い頃から水戸学に勤しみ、その考え方を自分の政治信条としていきました。水戸学とはいわゆる「外国勢力を追い払って日本固有の秩序を保つ」という尊王攘夷の思想です。外国船がたびたび出没する幕末期にあって、急激に頭角を現してきた学問でした。

1829年、藩主だった兄の死去に伴って家督を継いだ斉昭は、さっそく大胆な藩政改革に着手することになりました。各地の農村に非常時のための穀物蔵を設置したり、反射炉を用いて西洋式兵器を生産したり、大規模な軍事訓練を行うなど、尊王攘夷を念頭に置いた施策を次々に打ち出していきました。

それどころか寺院の梵鐘を鋳溶かして大砲を製造したり、勝手に寺院を撤去したりなど、仏教弾圧政策に力を入れ過ぎたことが逆に幕府から警戒心を抱かれてしまい、1844年に隠居と謹慎処分を受けてしまうのです。

いっぽう藩校である弘道館を設立し、下級武士であっても積極的に学ばせ、人材の発掘や育成に努めることも奨励していました。その結果、藤田東湖や武田耕雲斎など、歴史的に著名な人物たちを輩出することになったのです。

歴史の表舞台に躍り出た斉昭

いったんは謹慎させられた斉昭でしたが、周囲からの復帰を望む声もあり、2年後には謹慎を解かれてます。そして1853年に晴れて幕府の海防参与として就任するのです。ちょうどアメリカのペリー提督が浦賀へ来航し、強硬に日本へ開港を迫った時期でもありました。

骨の髄から攘夷思想に凝り固まっていた斉昭は、「そんなもの打ち払ってしまえ!」と言わんばかりに攘夷を主張。開国論にシフトしかけていた幕閣たちと意見を異にします。それでも水戸藩で製造した大砲や軍艦を幕府へ献上するなど江戸の防備のために尽くしていますね。

そして斉昭の考えに感化された全国の大名や志士たちによって、尊王攘夷運動は燎原の火の如く広まっていくのです。

ところが斉昭の意に反して、弱腰の幕府はあっさりと日米和親条約を締結してしまいます。怒った斉昭は海防参与を辞任。今度は軍制改革参与に任じられますが、開国へと舵を切ってしまった幕府にとって、斉昭の存在はもはや邪魔でしかありませんでした。

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明石則実