室町時代戦国時代日本の歴史

豊臣家滅亡へのカウントダウン「大坂冬の陣」の背景と経緯をわかりやすく解説

家康の大砲攻撃に萎縮した淀殿

真田丸で手痛い反撃を受けた家康は、作戦を次の段階に移すことにしました。登場したのは、あらかじめイギリスやオランダに発注していた大砲です。これらを、家康は昼夜の区別なしに撃ち込み続け、豊臣方を精神的に追い込みにかかりました。

淀殿は武装して兵士たちを激励に回っていたといいますが、本丸に撃ち込まれた砲弾が彼女のそばに命中します。彼女に従っていた侍女たち8人が即死し、この惨状にはさすがの淀殿も仰天。そのまま、家康の提案してきた和議に応じることとなったのです。

和議成立も、すぐにキナ臭いことに…

和議は、徳川方からは家康の懐刀・本多正純(ほんだまさずみ)と、家康の最も信頼する側室・阿茶局(あちゃのつぼね)が出席し、豊臣方からは淀殿の妹である常高院(じょうこういん)が出席して行われました。

内容としては、大坂城の本丸を残し、二の丸や三の丸は壊し、外堀を埋めることが約束されました。他には、豊臣家の本領が保証され、豊臣家に加担した浪人衆の罪は問わないなどというものも約束されました。

堀の埋め立ては完了しましたが、家康は豊臣家主導で行うはずだった二の丸を、自分たちが三の丸を破壊した勢いで勝手に壊してしまいます。それに不快感を抱いた豊臣家は、その後浪人たちを召し抱え続けるのですが、それが家康の不興を買うことになるのです。

そして両者は再び戦の準備を開始。大坂夏の陣へのカウントダウンが始まったのでした。豊臣家は、確実に滅びの道を歩んでいったのです。

トップに立つ者の経験の差は致命的

image by PIXTA / 19709900

家康と秀頼、彼らの違いは、圧倒的な経験の差でした。老獪な家康に対し、秀頼は若すぎたのです。加えて、家康の側近たちのような切れ者がそばにいるわけでもなく、意見を主張するのは母親くらいという状態。大坂城五人衆のような勇将たちがいても、彼らを使いこなすトップがいなければ、戦いの行く末は最初から見えていました。それでも、豊臣方はこれに続く大坂の陣でも必死の抵抗を見せることになります。続きは、「大坂夏の陣」の記事でご紹介しましょう。

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