片桐且元の奔走と大坂城退去
方広寺の鐘銘事件の勃発後、豊臣方は片桐且元(かたぎりかつもと)を使者に立て、家康への申し開きをさせようとしました。しかし家康は会おうともせず、後から行った淀殿の乳母・大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)には面会し、丁重に扱った上で帰したのです。こうしたところにも、家康が豊臣方を内部分裂させようという意図があったことがわかりますね。
その後、大坂城に戻った片桐且元は、この難局を乗り切るために、「秀頼を江戸に参勤させる」、「淀殿が江戸で人質となる」、「秀頼が大坂城を去り、国替えに応じる」という策を淀殿と秀頼に提案しますが、これに淀殿が激怒。且元は裏切り者のような扱いを受けるようになり、たまらず、大坂城を去ったのでした。
これは、家康に格好の出兵の口実を与えます。というのも、且元は幕府からも領地を与えられており、つまりは家康の家臣でもあるということ。そんな且元を秀頼が処分しようしたことは、家康に対してとんでもないことだとしたのです。
大坂城に集まる浪人たち
豊臣・徳川の双方が戦に向けての準備を開始しました。
徳川方は鉄砲や大筒の製作を進め、イギリスやオランダに大砲を注文し、豊臣家は関ヶ原の戦いの後に浪人となった者たちを大坂城に集め始め、兵糧も蓄え始めます。
秀頼の呼びかけに応じて集まった浪人衆は10万人にも上ったと言われていますが、その目的は様々でした。純粋に豊臣家への恩義がある者ももちろんいましたが、一旗揚げようという者、名誉挽回を狙う者などがおり、反・徳川の意思はあれど、軍としてのまとまりはどうかといえば、徳川方に比べればはるかに欠けていました。
ただ、浪人衆の中には歴戦の勇将たちも含まれていました。大坂城五人衆と呼ばれる武将たちで、真田信繁・後藤基次(ごとうもとつぐ)・明石全登(あかしぜんとう/たけのり)・毛利勝永(もうりかつなが)・長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)らでした。
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大坂城へ籠城する豊臣方と、戦を前に生き生きする家康
豊臣方にはさらに問題がありました。大野治長(おおのはるなが)らは大坂城に籠城することを主張しましたが、真田信繁ら五人衆などはもう少し積極的な策を主張し、まずは周辺を制圧して徳川方と西国を分断し、徳川方を足止めしている間に西国の諸将を説得して味方につけるというものでした。
結局、秀頼や淀殿に近い治長の案が採用され、大坂城での籠城が決定したのです。徳川方の軍勢は約20万とも言われており、豊臣方をはるかに上回る数でした。
家康はすでに老境でしたが、戦を前に、若返ったように生き生きしていたと伝わっています。やはり、戦国時代を知る者の血が騒いだのかもしれません。実際、戦に明け暮れた経験豊富な武将たちの多くは隠居するか世を去るかしており、その息子たちの世代が軍勢のメインでした。それを考えると、徳川方も大軍とはいえ、決して圧勝というわけにはいかなかったのです。
大坂冬の陣の推移と和議締結
大坂冬の陣は、当初、真田信繁のつくった真田丸での戦いで豊臣方が優勢に戦を進めるなど、意外にも豊臣方が勇戦し、形勢はこのまま推移するかに見えました。しかし、家康による砲撃は、武将たちではなく淀殿を精神的に追い込み、彼女の一声によって和議が結ばれることとなり、武将たちの奮戦は水泡に帰すこととなってしまうのです。大坂冬の陣がどのように推移したのか、ご紹介しましょう。
前哨戦で全敗した豊臣方
大坂城での戦いが始まる前に、大坂冬の陣はすでに前哨戦が始まっていました。木津川口(きづがわぐち)の戦い、鴫野(しぎの)の戦い、今福(いまふく)の戦い、博労淵(ばくろうぶち)の戦い、野田・福島の戦いなど、小規模な戦闘がいくつも起きました。しかし、いずれも豊臣方は勝利を収められず、大坂城での籠城戦が始まります。
対する徳川方は、20万の大軍で城を包囲しました。
しかし家康はさすがに百戦錬磨。むやみに攻めるなと目地、塹壕を掘って土塁をつくるなど、様子を見ることにしたのです。
真田丸の戦い
豊臣方を代表する勇将・真田信繁は、早くから大坂城の南側が手薄であることに目をつけ、「真田丸」という出城のような砦を作っていました。
一方、真田丸から放たれる矢や鉄砲などのちょっかいにしびれを切らした徳川方の前田利常(まえだとしつね)隊は、家康の命令を守らず、攻撃を開始してしまいます。それにつられて他の隊も負けじと攻撃を開始し、真田丸へと兵たちは殺到しました。
しかし、これは真田信繁の狙いどおりの展開でした。殺到する兵たちに対し、真田丸からは鉄砲の一斉射撃がお見舞いされたのです。混乱に陥った味方に怒りながらも、家康はやむなく退却を命じたのでした。
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