日本の歴史江戸時代

失敗?成功?江戸の三大改革のひとつ「寛政の改革」をわかりやすく解説

寛政の改革で経済政策以外に行われたことは?

旗本や御家人の救済措置として「棄捐令(きえんれい)」というものが出されました。借金に苦しむ旗本たちのために、借金を帳消しにするか、あるいは利息を下げて返済しやすくできるよう、札差(ふださし・米の仲介業者。米を担保に高利貸しをしていた)に命じ、それで困る札差には資金援助を行う、というものです。

また「寛政異学の禁」という令を出し、朱子学を公認。朱子学以外の学問を禁じました。

その他、洒落本など当時流行っていた書籍類の出版を統制。幕府を批判する書物も禁止され、庶民が読むものも規制されていきます。

また、旗本や御家人に対して「学問吟味」と呼ばれる試験が行われ、勉強するよう促す制度も設けられました。

そしてとうとう、松平定信は大奥にもメスを入れます。経費を半分以下に切り詰めるよう大倹約令を出しますが、贅沢大好き浪費大好きの大奥から相当嫌われてしまったようです。

寛政の改革の成果は?成功したの?

寛政の改革はおよそ6年に渡って行われました。しかし残念ながら、大きな成果のないまま、庶民や大名たちの不満が募るだけ、という結果になってしまいます。

原因は、倹約に次ぐ倹約で、締め付けが厳しすぎたこと。

救済してもらった旗本たちも大勢いたはずですが……息苦しさを感じた人のほうが圧倒的に多かったようです。

前任の田沼時代の金にまみれて緩みきった政治を立て直したい、という気負いが強すぎたのかもしれません。

それまでの江戸の人々は、それほど裕福な生活はしていなくても、ときどき面白おかしい洒落本を買って読んだり、たまにお芝居を見に行ったりして、大都会お江戸の暮らしを自由気ままに満喫していました。それを急に、あれはダメ、これはダメと厳しいお達し。不満が募るに決まっています。

悲劇的なことに、仕えている徳川将軍家斉は根っからの贅沢大好き人間。老中にしたとたん、倹約倹約と言い始めた松平定信のことが鬱陶しくて仕方がありません。

あげくのはてに、周囲から「田沼時代のほうがよかった」と言われる始末。

寛政の改革は、失敗とまで言わないまでも成功しなかった、というところでしょうか。

寛政の改革の後、松平定信はどうなったの?

周囲から反感を買ってしまった松平定信。本人からすれば、改革はまだまだこれから!というときに、突然辞職を命じられてしまいます。

ただ、松平定信の経営理念は残された定信派の老中たちによって引き継がれ、寛政の改革の基本方針はそのまま維持。この後、幕末まで受け継がれていくこととなります。

質素倹約は決して間違ったことではありません。ただ、極端すぎて時代に合わなかったのでしょう。

失脚後、松平定信は、自身のおひざ元である陸奥国白河藩の藩主として、藩政の立て直しや財政改革に努めました。

文政12年(1829年)、病に伏せるようになり、死去。72歳でした。

お墓は東京都江東区白河一丁目にある霊巌寺(れいがんじ)にあります。

質素倹約の「寛政の改革」~間違ってはいないけど厳しすぎた?

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政策のひとつひとつを見ると、うまくいきそうな印象も受ける寛政の改革。「いちおうの成果を上げた」という評価もあるようですが、一般的には庶民からの不満の声が多く、お世辞にも成功とは言えない状況。やり方がまずかったのかもしれません。松平定信公ご本人は、真面目で勉強家。たぶん、真面目に一生懸命、改革しようと思ったのだと思います。それを思うと、もうちょっと評価されていてもいいのになぁ……と、そんなことも感じました。

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