室町時代戦国時代日本の歴史

日本三大奇襲のひとつ「厳島の戦い」毛利元就が数倍の敵に勝利した理由とは?わかりやすく解説!

晴賢は背後を襲われパニックに

まさか元就隊が背後にいるとは思わなかった晴賢の軍勢は、虚を衝かれて混乱します。しかもそこに上陸してきた小早川隊が襲い掛かり、挟み撃ちされてしまったのです。

狭い島の中に2万とも3万ともいわれる大軍がひしめいていたため、晴賢軍は身動きが取れず、大パニックとなりました。逃げようとして味方同士で船を奪い合ったり、溺れ死んだりする兵が続出したのです。

混乱の中、晴賢を逃がそうとした武将がいます。それが、晴賢側の弘中隆兼(ひろなかたかかね)でした。

忠臣・弘中隆兼の奮闘むなしく晴賢は敗れる

弘中隆兼は、元々厳島への出兵に反対していました。狭い厳島に陣を布いて、背後を襲われてはひとたまりもないと晴賢に進言していたのです。しかし、好戦派の主張を受け入れた晴賢は、隆兼の意見を黙殺してしまったのでした。

それでも、隆兼にとっては、晴賢は主筋。何としてでも助けなければと彼は奮闘し、何とか晴賢を逃がしました。

その場は逃げ出すことができた晴賢でしたが、岸辺に着いてももはや船がありません。元就の追っ手も迫り、ついに晴賢は自害したのでした。

晴賢の死を知らないまま、隆兼はその後も激烈な抵抗を続けたと言います。しかし力尽き、2日後に隊もろとも全滅し、壮絶な討死を遂げました。

勝者となった元就

晴賢の首は側近によって隠されましたが、元就は晴賢の草履取りをしていた少年を捕らえると、命を助ける代わりに晴賢の首のありかを聞き出し、ついに晴賢の首を見つけました。元就はそれを3度鞭打ったと言われています。

晴賢軍の死者は4~5,000人とも伝わり、これは元就が動員した毛利軍の総勢と同程度でした。つまり、甚大な損害を出したということになります。

晴賢を失った大内氏は、傀儡当主の大内義長(おおうちよしなが)も自害に追い込まれ、戦国大名として滅亡しました。そして、晴賢の息子たちも争いに呑まれ、自害することになります。

一方、勝者となった元就の力は一気に拡大し、この戦いをきっかけとして中国地方の雄となり、存在感を増していくのでした。

陶晴賢の油断が毛利元就の知略につけこまれた戦いだった

image by PIXTA / 23361610

厳島の戦いは、兵力だけ見れば晴賢の勝利は固いものでした。しかし、そこで発揮されたのが元就の知略。誰もが想像しえない奇襲を成功させたことは、単に運の問題ではなく、元就が戦国時代を代表する名将だったことの証明でした。数を過信することがどれほど危ういか、晴賢にそれがわからないはずはなかったように思いますが、いざ敵に数倍する兵力を持つと、判断を誤ってしまったのでしょうか。戦国時代の三大奇襲と呼ばれるにふさわしい戦いでした。

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