元就の勝利への布石
元就が厳島を占領すると、晴賢との緊張は高まり、ついに戦いが起こります。この前哨戦を制したのは元就でしたが、彼は同時に様々な策を張り巡らせていました。この策略が、彼の勝利の布石となったことは間違いありません。元就はいったいどんなことをしたのでしょうか。
晴賢と元就の緊張が高まる
晴賢が元就を敵視し始めると、元就は抗戦準備に入り、厳島のある宮島対岸の桜尾城(さくらおじょう)、そして厳島を占領してしまいました。
また、厳島の戦いの前年である天文23(1554)年には、前哨戦となる折敷畑(おしきばた)の戦いが起きます。ここで元就は晴賢側の宮川房長(みやがわふさなが)と交戦して勝利を収めました。一説にはこの戦いは実在せず、他の戦いと混同されたとも言われていますが、元就と宮川房長が戦ったということは事実のようです。
他にも海上でしのぎを削り合うなど、元就と晴賢の間の緊張はどんどん高まっていきました。
元就が仕掛けた策略
晴賢との決戦に当たり、元就は周辺勢力を取り込むため、外交交渉と調略(ちょうりゃく/謀反や離反などを促す政治的交渉)に力を入れていました。
元来、謀略の人として有名だった元就の手腕は超一流。その点においては晴賢の一歩以上先を行っていたのです。
まずは、陶晴賢の家臣・江良房栄(えらふさひで)に内通を持ち掛けました。房栄はそれに応じる姿勢を見せましたが、領地を増やしてくれるようにと要求してきたため、元就は晴賢陣営に房栄内通の噂を流し、晴賢が房栄を殺すように仕向けたのです。
また、自分の家臣である桂元澄(かつらもとずみ)に、晴賢への内通を偽装するように命じました。元澄の父親は元就が家督を継ぐ際の争いで自害させられており、元澄が恨みを抱いていると晴賢に書状を送れば、信憑性があると考えたのです。
このようにして、元就は晴賢の陣営をかく乱していったのでした。
村上水軍を味方につけた元就
また、厳島の戦いで元就が勝利を収めた大きな要因のひとつが、瀬戸内海に精通した村上水軍を味方につけたことです。
元就は、村上水軍の主力・村上道康(むらかみみちやす)に、息子の小早川隆景の養女を嫁がせ、姻戚関係を結びました。
そして、隆景の家臣・乃美宗勝(のみむねかつ)が、「1日だけ、軍船をお借りしたい」と誠実に説得し、ついに村上水軍の参戦が決まったのです。
この時、元就は焦っていました。晴賢の大軍がすでに厳島に上陸し、毛利方の城・宮尾城(みやおじょう)を包囲し、堀を埋めた上に水を断っていたのです。城兵すべての命が大きな危険にさらされていました。
「このまま村上水軍が来ないならば、毛利と小早川の水軍だけで出撃する!」とまで言い放っていた元就ですが、結果、村上水軍が姿を現し、ほっと胸をなでおろすことになったのです。
決戦!厳島の戦い本戦
厳島の戦いは、前日からの雷を伴う暴風雨の中での戦いとなりました。大軍であることと悪天候に油断した晴賢の軍勢を、早朝から元就は急襲し、大混乱に陥れたのです。兵力だけみれば晴賢軍が4倍とも5倍ともされていましたが、混乱の中、晴賢はあっけなく敗れ去ります。そして、勝者となった元就には、中国地方の覇者への道が拓けることとなったのでした。
悪天候を吉報と信じた元就
天文24年9月30日(1555年10月15日)、厳島の戦いの決戦前夜、厳島を雷と暴風雨が襲いました。本来ならばとても戦などできないような天候でしたが、元就はこれを「神のご加護だ!」として出撃を敢行します。
元就本隊は島の東側へ回り、小早川隊は西側へ回り込むと、夜の闇と悪天候に乗じて「九州から陶どのの加勢に参った」と称してまんまと上陸することに成功しました。村上水軍は沖合で待機し、決戦の時を待ちます。
そして翌日10月1日の早朝、元就は全軍に号令を発し、晴賢の軍勢の背後から一気に襲い掛かったのでした。