韓国併合条約の締結
第三次日韓協約締結後も、韓国政府は形式上存続していました。初代統監の伊藤博文が韓国を国として存続させようと考えていたからです。しかし、義兵闘争の長期化などで統監府による統治では植民地として完全に支配できないという意見が日本国内で強まりました。
日本は第一次日露協約や桂=タフト協定、第二次日英同盟などにより列強への根回しは完了済みです。日本政府は韓国への併合を実行しても列強は干渉しないだろうと予測しました。
1909年、併合に慎重な伊藤がハルビンで韓国人青年の安重根に殺害されると、その事件を利用して韓国を日本の植民地とする韓国併合を実行します。
韓国は朝鮮と改称され、朝鮮を統治するための朝鮮総督府が京城に設置されました。これにより、朝鮮半島は完全に日本の植民地とされます。
三・一独立運動
1910年の韓国併合以後、朝鮮半島を統治したのが朝鮮総督府でした。朝鮮総督府は軍事力によって朝鮮人民を従わせるという武断政治をおこないます。
1919年、第一次世界大戦の終結を受けて、パリ講和会議が開かれていました。パリ講和会議はアメリカ大統領ウィルソンが提唱する「十四カ条の平和原則」に基づいて進められます。朝鮮の人々は「十四カ条の平和原則」の中には植民地問題の公平な解決(民族自決)の原則に大いに期待しました。
1919年3月1日、朝鮮の人々は三・一独立運動を起こしソウルで独立宣言を発表します。しかし、朝鮮総督府は直ちに運動を弾圧しました。
朝鮮総督府は行き過ぎた武断政治が独立運動の背景にあると考え、文化政治へと転換させます。地方政府への朝鮮人の登用や憲兵の権限縮小などを行いました。
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第二次日韓協約により外交権を奪われ保護国とされた韓国政府にとって、通常の方法では独立を維持することが不可能となっていました。19世紀末から20世紀初頭の帝国主義の時代、国際連合も存在せず、弱肉強食の時代だったことを考えれば、韓国政府としてはやむを得ない手段だったでしょう。1910年に併合された韓国が独立を回復するのは、第二次世界大戦後となります。