ハーグ密使事件の経緯
第二次日韓協約により外交権を失った韓国。しかし、何とかして日本の保護国から逃れ独立を回復しようと考えました。1907年、韓国皇帝である高宗はハーグで開催中の万国平和会議に密かに使者を遣わし、日本の不当さを世界各国に訴えようとします。しかし、ことは露見し高宗は韓国皇帝の地位から退位せざるを得なくなりました。
ハーグ平和会議の開催
19世紀末、欧米列強は帝国主義に基づき世界各地を分割・占領し植民地化していました。ビスマルク引退後のドイツは、皇帝ヴィルヘルム2世による積極的な対外進出(世界政策)を展開。これにより、他の列強との摩擦が発生するようになります。
1899年、ロシア皇帝にニコライ2世は、帝国主義諸国の武力衝突を回避するため平和会議の開催を提唱。28カ国が参加する第1回ハーグ平和会議を開催しました。
1907年、以前よりも多い47カ国が参加する第2回ハーグ平和会議が開かれます。ハーグ平和会議には各国代表が一堂に会することは明白。韓国皇帝の高宗はハーグに密使を遣わすことで、日本による日韓協約強要の不当性を各国に訴えさせようとしました。
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ハーグ密使事件の発生と皇帝退位
高宗の密命を受けた使者の李儁(りしゅん)ら韓国政府高官は、主催者であるロシア皇帝ニコライ2世のもとを訪問。韓国皇帝の親書を手渡しました。
1907年6月、ハーグに到着した韓国使節一行は、参加各国の使節に面会を求めます。しかし、各国は韓国使節の主張に耳を傾けませんでした。ポーツマス条約を結んだロシア、桂=タフト協定を結んだアメリカ、第二次日英同盟を結んだイギリスは使節との面会さえ断ります。
大国に黙殺された李儁(りしゅん)は抗議の意味を込めて自殺しました。ハーグ密使事件を知った日本政府は統監の伊藤博文と協議します。伊藤は直ちに韓国皇帝高宗に面談を要求。返答次第では戦争も辞さないと高宗に詰め寄りました。
高宗は皇帝位を子に譲り退位することで責任を取らされます。事件を知った韓国の民衆は大いに怒り、日本の警官と衝突しました。しかし、韓国に駐留する日本軍によって鎮圧されます。
第三次日韓協約の締結
統監の伊藤博文は、ハーグ密使事件を韓国にさらなる圧力を加える好機と判断しました。ハーグ密使事件後、伊藤は韓国政府に迫り第三次日韓協約を結ばせました。
協約では、韓国政府は韓国での内政権を放棄し、統監の指導を受けるとされます。法令の制定や重要な行政処分などは全て統監の同意が必要とされました。また、付属の秘密協定で韓国軍隊の解散が定められます。
同時に日本は韓国で土地調査事業を開始。所有権があいまいな土地を全て接収し、多くは日本人に払い下げられました。
第三次日韓協約締結後、解散させられた韓国軍の一部が反日義兵闘争を展開します。日本政府は朝鮮半島に軍を増員し、反日義兵闘争を抑え込みました。第三次日韓協約により、韓国は完全に日本の保護国となります。
ハーグ密使事件後の日朝関係
ハーグ密使事件をきっかけとして結ばれた第三次日韓協約は韓国から内政権を奪い、韓国軍を解散させることに繋がりました。もはや、韓国は独立国ではなくほとんど日本の植民地とされます。1909年の伊藤博文暗殺をきっかけに、韓国併合条約が結ばれ、完全に植民地にされました。その後、三・一独立運動などが展開されますが日本に抑え込まれます。また、第二次世界大戦期には皇民化政策が推し進められ、日本の戦争に韓国の人々も動員されました