日本の歴史昭和

要人暗殺により日本の政治変革を試みた「血盟団事件」とは?背景・経緯・影響など元予備校講師がわかりやすく解説

血盟団事件の経緯

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茨城県大洗町の立正護国堂を中心に布教活動をしていた日蓮宗の僧井上日召は、茨城県やその周辺地域の青年達を集め、政治活動を行っていました。井上は「一人一殺」を掲げ、政財界の指導者を暗殺することで軍のクーデタを助け、天皇親政を実現しようともくろみます。井上の指示を受けた実行犯は前蔵相の井上準之助や三井財閥総帥の団琢磨を暗殺しました。

井上日召による政治活動

1886年、井上日召(本名、井上昭)は群馬県の医師の子として生まれました。旧制中学校を卒業後、早稲田大学や東京協会専門学校に入学しますがいずれも中退。1909年に南満州鉄道に入社し、諜報活動などを担ったといいます。

1920年に帰国し、1928年に茨城県大洗にあった立正護国堂の住職となりました。住職就任後、井上は近隣の青年たちを集め、政治活動を行います。

井上は、民間人が率先して政財界の大物を暗殺し、混乱をもたらせば天皇親政を目指している軍人たちが呼応してクーデタを決行すると考え、その思想を青年たちに説きました。

井上の思想に共鳴した青年たちは組織を結成します。この組織は、特別名前が付けられていませんでした。世に知られている「血盟団」の名は、事件後に逮捕された井上を取り調べ中に、検事らが付けた名のようです。

「一人一殺」の対象とされた人物たち

井上や彼の思想に共鳴した青年たちが打倒しようとしたのはどのような人物たちだったのでしょうか。暗殺の対象として挙げられていたのは1931年当時の内閣総理大臣である犬養毅、天皇に次の首相を推薦する元老だった西園寺公望

民政党系内閣で外務大臣を務め、欧米諸国と融和的な外交を行った幣原喜重郎や金融恐慌や満州事変のころに総理大臣を務めていた若槻礼次郎などの大物政治家が中心でした。

また、経済関係者としては、前大蔵大臣で昭和恐慌の元凶ともみなされた前蔵相の井上準之助や三井財閥総帥の団琢磨らが暗殺のターゲットとなります。

井上の思想に共鳴した青年達は、それぞれ自分が暗殺する対象を決め、ターゲットの殺害に向けて行動を開始しました。

井上準之助と団琢磨の暗殺

井上らは要人暗殺というテロリズムを手段とし、昭和維新という目的を達成しようと試みました。井上は紀元節である2月11日の前後に要人暗殺を実行するよう指示します。

当初は、海軍内部にいる同調者のクーデタも同時に行うつもりでしたが、井上に同調していた藤井斉らが上海事変で出兵命令を受けたため、民間人による要人暗殺が先行することになりました。

1932年2月9日、前大蔵大臣の井上準之助が選挙応援のため本郷小学校を訪れた際、暗殺組織の一員となっていた小沼正が井上を至近距離からピストルで射撃し命を奪います。井上は金解禁やデフレ政策を実行し、海軍予算を削減しようとしたためターゲットとされました。

3月5日、ターゲットの一人とされていた三井財閥総帥の団琢磨菱沼五郎らによって射殺されます。団琢磨が狙われた理由は、恐慌で多くの人が苦しんでいるときに三井のみが利益を上げる取引を行っていたからでした。

血盟団事件後の動き

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井上準之助や団琢磨を暗殺した二人の背後に、井上日召がいることが判明。井上だけではなく、彼に同調した青年たちも相次いで逮捕されました。井上ら「血盟団員」は無期懲役などの判決を受け服役後、釈放されます。血盟団事件後、日本社会の右傾化が顕著になり、五・一五事件や二・二六事件といった青年将校たちによる事件が相次ぎました。犬養毅が五。一五事件で暗殺されたことで政党政治は断絶し、日本は軍部中心の国家体制へと移行し始めます。

血盟団員の判決とその後

井上準之助暗殺の実行犯である小沼正や団琢磨暗殺の実行犯である菱沼五郎は、取り調べに対し黙秘を続けます。しかし、二人が同郷であることなどから警察は二人と井上の関係をつかみました。

井上は、一度は逃亡します。しかし、3月11日に警察に出頭。彼の同志となった14人の仲間も逮捕されます。血盟団をめぐる裁判は1934年11月22日に判決が言い渡されました。首謀者の井上日召と実行犯の小沼正、菱沼五郎は無期懲役。その他の参加者は懲役三年から十五年の実刑判決が下されました。

1940年、井上らは恩赦により出獄します。井上と小沼は右翼活動を継続し、ともに太平洋戦争を生き延びて戦後に没しました。菱沼は結婚で小幡五郎と改名。茨城県議会議員を8期にわたって勤め、地元の有力者となります。

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