上杉禅秀の乱と永享の乱
基氏に始まる鎌倉公方は、氏満、満兼、持氏と引き継がれました。15世紀はじめ、鎌倉公方の持氏と関東管領の上杉禅秀が領地をめぐる裁判で対立。上杉禅秀は関東管領を辞職します。
1416年、上杉禅秀は鎌倉府の支配に不満を持つ豪族たちの支持を得て上杉禅秀の乱を起こしました。持氏は幕府の援軍を得て乱を鎮圧します。
1428年、室町幕府4代将軍の足利義持が死去すると、新たに6代将軍となった足利義教と鎌倉公方足利持氏の関係が悪化しました。持氏が自分にも将軍継承の資格があると考え、一度出家した義教が将軍となることに強く反発したからです。
この時、幕府と鎌倉公方の間を取り持っていた関東管領の上杉憲実は持氏の怒りを買い、持氏によって討伐されてしまいました。将軍義教は憲実救援の兵を鎌倉に派遣。永享の乱が始まりました。
幕府軍が関東に到着すると、持氏軍は次々と幕府方に降伏。持氏は攻め滅ぼされてしまいます。これにより、鎌倉府による関東支配は崩壊しました。
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鎌倉府の分裂と古河公方・堀越公方の成立
永享の乱によって崩壊した鎌倉府は持氏の遺児である成氏によって再興されました。しかし、鎌倉府内部の対立はおさまらず、鎌倉公方と関東管領の争いは激化。足利成氏が関東管領の上杉憲忠を殺害したことがきっかけとなり、享徳の乱がおきます。室町幕府8代将軍の足利義政は弟の政知を関東に派遣しました。これにより、下総の古河に本拠を移した足利成氏と伊豆の堀越に本拠を置いた政知が対立する構図が出来上がります。
足利成氏による鎌倉府の再興
永享の乱後、関東では持氏の遺児である安王丸と春王丸を奉じた結城氏朝・持朝父子が幕府に対して抵抗する結城合戦が起きました。1441年、結城合戦は幕府の勝利に終わり、安王丸と春王丸は将軍義教の命令により殺害されます。
そのころ、京都では将軍義教が嘉吉の変により殺されていました。京都も鎌倉もトップを欠くという異常事態となったのです。
将軍職は義教の子である義勝が継ぎますが、1年余で亡くなったため義勝の弟である義政が将軍となりました。空席が続いた鎌倉公方には、持氏の遺児で生き残っていた成氏が就任することが決まります。新たな関東管領には上杉憲忠が就任しました。
とはいえ、長期にわたってトップを欠いた鎌倉府は不安定で、成氏派の武士たちと、上杉氏を支持する武士たちの対立などが続きます。
享徳の乱
1454年、足利成氏は関東管領の上杉憲忠を鎌倉に呼び寄せ謀殺しました。殺害の理由は、父である持氏が上杉氏との対立で殺害されたことによる恨みを晴らすためとも、鎌倉府内部の深刻な対立が原因ともいわれています。
この暗殺事件がきっかけとなり、30年近くにわたって続く享徳の乱が始まりました。はじめ、成氏は上杉方の軍勢を打ち破り有利に戦局を進めます。
一方、上杉氏は憲忠の弟である房顕を後継者として体勢を立て直しました。幕府は上杉氏の支持を決め、後花園天皇の綸旨を得たうえで成氏討伐に乗り出します。
1455年6月、駿河から攻め込んできた幕府方の今川範氏が鎌倉を制圧しました。成氏は鎌倉に戻ることを断念し、下総の古河に本拠を移します。これにより、成氏は古河公方と呼ばれるようになりました。
2人の公方と2つの関東管領家
享徳の乱で混乱する関東の秩序を回復するため、8代将軍足利義政は弟の足利政知を関東に派遣しました。ところが、政知は古河公方足利成氏派の妨害工作もあって鎌倉に入ることが出来ません。やむなく、伊豆の堀越に御所を開きます。そのため、足利政知は堀越公方と呼ばれるようになりました。
一方、関東管領の上杉家も二つに分裂します。ひとつは上野など北関東に拠点を持つ山内上杉家。もうひとつは武蔵など南関東に拠点を持つ扇谷上杉家です。山内上杉氏は堀越公方足利政知を支援したのに対し、扇谷上杉氏は古河公方足利成氏を支持します。両上杉家は、関東を舞台に激しく対立しました。
鎌倉公方も、関東管領も二つに分かれてしまった関東は争いがたえない土地になってしまいます。
北条氏の台頭
16世紀前半、駿河今川氏の内紛を治めた伊勢宗瑞こと北条早雲は、政知死後に混乱した伊豆に攻め込み、堀越公方を滅ぼしました。早雲の子である氏綱や孫の氏康は両上杉の勢力を確実に駆逐し、関東を手中に収めます。特に氏康は河越の夜戦で勝利し、扇谷上杉氏の滅亡を決定的なものにしました。古河公方は安房の里見氏の力を借りるなどして北条氏に抵抗しますが、次第に力を失います。