日本の歴史鎌倉時代

鎌倉公方の末裔として関東に根を張った「古河公方」とは?元予備校講師がわかりやすく解説

堀越公方の滅亡

堀越に御所を構えた足利政知は、幕府の援軍を使って鎌倉進出を図ります。しかし、いずれの試みも失敗し、政知の支配権は伊豆一国にとどまりました。1491年、足利政知が病死。後継者は長男の茶々丸と次男の潤童子の二人に絞られます。

この時、政知の妻は実子である潤童子を跡継ぎにするため、茶々丸を牢屋にいれ家督相続から外そうとしました。ところが、茶々丸は牢番を倒して牢から脱出。継母と潤童子を殺害し堀越公方を称します。

伊豆の混乱を見た伊勢宗瑞は、居城の興国寺城から出撃し伊豆に攻め込みました。重臣を手打ちにするなど、いたずらに混乱を巻き起こしていた茶々丸は伊勢宗瑞の軍によって滅ぼされます。この伊勢宗瑞こそ、のちの北条早雲でした。堀越公方を滅ぼした早雲は、相模南端の小田原城も奪取し北条氏の勢力を拡大します。

古河公方の分裂と国府台合戦

早雲の後を継いだ氏綱は徐々に勢力を相模に拡大しました。氏綱は早雲が平定した伊豆・相模を基盤とし、扇谷上杉氏の本拠地である武蔵を蚕食します。

氏綱が南武蔵を制圧したころ、古河公方家で内紛が起きました。古河公方足利政氏と不仲になった政氏の子である義明は、上総国の豪族である真里谷氏の支援をうけ、下総の小弓城に拠って小弓公方と称されました。

真里谷氏や南総の里見氏の支援を受けた義明は、古河公方や新興勢力である北条氏綱と張り合うだけの力を得ます。

1538年、真里谷氏の内紛に端を発した国府台合戦で小弓公方足利義明は北条氏綱の軍と激突しました。この戦いで義明は戦死。小弓城は陥落してしまいます。

国府台合戦の背景には、小弓公方と対立していた古河公方の思惑もありました。国府台合戦後、公方家は古川公方に一本化されます。

河越の夜戦

氏綱・氏康父子は、扇谷上杉氏と戦いを繰り返し、扇谷上杉氏の勢力を徐々に弱めます。南武蔵を制した北条軍は扇谷上杉氏の本拠地である河越城を奪取しました。

1541年から1545年にかけて、氏綱の死をチャンスと考えた山内上杉家は強大化した北条氏に対抗するため扇谷上杉氏や駿河の今川氏と謀って北条氏康を挟撃。その後、北条方に奪われた河越城を包囲します。

氏康は古河公方に中立を要請しますが、古河公方は上杉方として参戦し、北条氏と敵対しました。

氏康は後方の今川氏と和睦し安全を確保すると、直属部隊で取って返し、夜襲で包囲軍を打ち破ります。この勝利により、扇谷上杉氏は滅亡。古河公方も大打撃を受けました

北条氏の覇権が確立する中、古河公方はひっそりと歴史の表舞台から姿を消した

image by PIXTA / 51867442

16世紀後半になると、関東の覇権は上杉謙信と北条氏康によって争われるようになります。古河公方もその争いに巻き込まれていきました。1583年、最後の古河公方である足利義氏が後継者となる男子を残さずにこの世を去ると、養子などはあてがわれず、義氏の死をもって古河公方は消滅します。名門の最後としてはなんともさびしいものとなりました。

1 2 3
Share: