源頼朝が立つ!
この時に立ち上がらなかった伊豆に流罪になった「源頼朝」が妻の「北条政子」の父親「北条時政」たちの力を得て、相模・伊豆・武蔵の武士団を集めて挙兵しました。
源義朝からの縁がある「三浦氏」「千葉氏」「上総介」「武田信義」を棟梁とする甲斐源氏の武士団と合流して攻めてきたのですね。それを討つために平清盛は平重盛の息子である「平維盛」を総大将に大軍を派遣したものの、「富士川の戦い」で水鳥の川から飛び立つ音が敵と勘違いして逃げ帰るという大失態を起こします。
この源氏軍で戦っているのは源氏だけではなく、大半が平氏系在地領主の武士団だったといいますね。「東の源氏、西の平氏」とよくいわれますが、元々の平氏は関東一帯に根付いていたのですよ。その中の伊勢に移り住んだ平清盛の一族が「伊勢平氏」であっただけのことなのですね。
すべてを敵に回してしまった平清盛
比叡山や園城寺や興福寺などが反平氏になって、反平氏の動きが大きくなっていきます。平清盛は反平氏の勢力を制するために、幽閉していた後白河法皇を解放して政権を返すことにしましたよ。これで後白河法皇と安徳天皇の世となったのですね。
その中で近江源氏が園城寺にはいったという知らせがきました。それを討つために園城寺に攻め入り焼き払ってしまいます。そして息子の「平重衡」を派遣して興福寺をはじめとした南都を焼き討ちしてしまったのですね。これで東大寺をも焼け落ちてしまったのですよ。これで寺社勢力や公卿たちを敵にしてしまい「仏敵」と呼ばれてしまうことになりました。
清盛の最期
治承5年(1181)2月、いよいよ本格的に源氏討伐に動こうとした寸前に熱病に倒れてしまいます。いよいよ自分の死期を悟った平清盛は後白河法皇に「自分が死んだら平宗盛にすべて託してあるので、相談して政務をしてください」と手紙を送りましたが無視をされてしまいますよ。平清盛はこれを恨み「後は任せる、異論をしないように」と命じたといわれ、『平家物語』では「葬式はするな、墓に頼朝の首を供えろ」と遺言したといわれています。閏2月4日に九条河原口の平盛国の屋敷で死亡。享年64歳でした。
本当の平清盛という人はどういう人だったのでしょう
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『平家物語』は鎌倉時代に作られた源氏側からの話ですので、平清盛はかっこうの大悪人だったわけですが、実は「無礼なことをされても冗談だと思って笑う」「側仕えの者が朝寝ていても、起こさないように寝床をはなれる」「若い頃に世話になった人が困っていたら援助をした」「人柱という悪習をやめさせた」などいうものが残っていて、平氏の棟梁として武士の地位をたかめて権力を維持するために反感をかって悪評がたったと思いますよね。そして平清盛の死後、平氏は壇ノ浦まで源氏に追いつめられて滅亡してしまいました。平清盛の本当の意志は源頼朝やそれ以降の武士達に引き継がれていったのですね。
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