「保元(ほうげん)の乱」での平清盛-その2-
平清盛は、義母の池禅尼が崇徳上皇の息子の乳母だったことから立場は微妙だったのですが、一門の結束のために後白河天皇側についたのでした。しかし叔父の「平忠正」などは崇徳上皇側についてしまいます。同様に源氏のほうも、源氏の棟梁であった「源為義(ためよし)」息子の「源為朝(ためとも)」が崇徳上皇側、後白河天皇側には源為義の長男の「源義朝(よしとも)」がつきました。
武士が権力争いの道具となって親兄弟と戦うことになった戦いの結果は、後白河天皇の勝利と終わります。天皇も貴族もじゃないかと思われがちですが、あちらは主体側で、武士は利用されているので、根本的に違いますよね。平清盛も源義朝も敵側についた親兄弟・叔父の助命嘆願をしますが、藤原信西に一蹴されて逆に自らの手で処刑するということになってしまったのですよ。
台頭していく平清盛
政治の中核をになった藤原信西は荘園内で起きていた紛争などをおさめるために「荘園整理令」を発令して、全国の荘園・公領を天皇の統治にしようとしたのですね。そのためには力が必要となります。乱鎮圧の褒美として平清盛は播磨守となり、北面の武士の中での最大勢力をもっていたのでした。藤原信西は平清盛に近づきます。
平清盛は命じられたとおり「荘園整理・荘官・百姓の取り締まり・(朝廷に逆らう)神官や悪僧の統制・荒廃した都の治安維持」という仕事をこなしていきました。藤原信西はさらに、自分の息子と平清盛の娘を婚約させることで結束を強めようとしたのですよ。
平清盛は「大宰大弐」という九州の太宰府の長官に任命されました。当時は「宋」という名前の中国との「日宋貿易」で経済的にも力を持ち始めたのですよ。軍事力に経済力の両方を手に入れたので怖い物なしですよね。
平治(へいじ)の乱での平清盛-その1-
鳥羽上皇の妃だった「美福門院」が、後白河天皇の息子である「守仁親王(後の二条天皇)」を養子にしていて、鳥羽上皇が崩御した後に即位させたかったのが、子供が父親を差し置いて(幼いし)ということで「つなぎ」の天皇として後白河天皇が即位していました。美福門院は、藤原信西に「早く退位させて、守仁親王を天皇に」と催促して「二条天皇」が誕生することになったのですね。
そのために「後白河上皇の院政を望む派」と「二条天皇の政治を望む派」という2つの勢力がうまれます。しかし「後白河上皇派の中にも藤原信西をよく思わない派」も出てきました。平清盛は後白河上皇の側近の「源信頼」にも娘を嫁がせて中立の立場をとっていたのですね。
源信頼は、平清盛が藤原信西派だったために源義朝の軍事力を後ろ盾にしていました。そこで平清盛が熊野参拝に行っている隙に後白河上皇と二条天皇をひそかに避難させてから院御所を襲撃して、源義朝と一緒に藤原信西を倒してしまいました。
平治(へいじ)の乱での平清盛-その2-
平清盛は藤原信西の仇討ちを考えますが、そうなると「朝敵」となってしまうので策略を練ります。まずは藤原信頼派と二条天皇親政派の関係を瓦解させる目的で二条天皇派に近づきましたよ。藤原信西が死んでしまえば源信頼は敵だと思っていた二条天皇派は、あっさりと味方になりました。次に本命の源信頼と源義朝ですよ。奇襲攻撃だったので多勢の兵がいない源信頼は、いつ平清盛が攻めてくるかと危惧していました。そこで娘を嫁がせている関係から恭順する形を見せます。
味方になった二条天皇派の協力のもと、後白河上皇と二条天皇は内裏から脱出。そして二条天皇から「源信頼を討つべし」という命令をもらいました。これで源信頼が朝敵となったのですよ。平清盛は御所に攻め込みますが、御所を戦場にするわけにいかないので六波羅までおびき寄せて討ち取ったのですね。
平清盛は、この戦いのあと、後白河上皇派と二条天皇派のどちらも藤原信西の死にかかわった人たちを一掃しています。ただ源義朝の息子の源頼朝らは、義母の池禅尼の嘆願で命を救うのですが、これが平氏を滅ぼす原因になってしまうなどとは、夢にも思わなかったでしょうね。自分と肩を並べられる武士が、この2つの戦いでほぼいなくなったために、名実共に武家の棟梁となり、武家政権の礎を作ったのでした。
平家にあらずんば人にあらず?
この言葉は平清盛が言ったように思われていますが、言ったのは奥さんの時子の弟の「平時忠」ですので覚えておきましょうね。試験には出ませんが。しかし、そう思われるほどの存在感を内外に示していくのでした。
朝廷の中で力をつけていく平清盛
永暦元年(1160)8月11日、後白河上皇は、院政を盤石なものとして二条天皇親政派に対抗するため平清盛を「公卿(くぎょう)」として認めて参内の時は公卿の列に加えました。当時から御落胤説もあったことも多少は関係しているのかもしれません。
応保元年(1161)9月、後白河上皇と平清盛の義妹である平滋子(建春門院)の間に皇子(後の高倉天皇)が生まれます。すると例の平時忠(皇子の叔父)らが次の天皇になることを画策し始めますよ。怒ったのは二条天皇。そこで平時忠たちを政治から遠ざけて「二条天皇を呪詛した」という罪をかぶせて流罪にしました。それで信頼を受けたのですね。検非違使別当 兼 権中納言を拝命しますよ。翌年の応保2年(1162)従二位。二条天皇の親政を盤石なものにします。長寛3年(1165)に最期まで後白河上皇を疑念したまま二条天皇は崩御しました。最後まで相容れなかった親子だったのですね。