平安時代日本の歴史

非道?慈悲深かった?武士の礎を築いた「平清盛」の生涯をわかりやすく解説

天皇の外戚となる!

次に天皇になったのは「六条天皇」です。しかし幼いために関白の「近衛基実」が摂政として政治を始めました。すでに娘を近衛基実に嫁がせている平清盛は権大納言・兵部卿となり、それを補助することになったのですよ。そして何食わぬ顔で平時忠たちを都に戻したのです。そこで憲仁親王が親王宣下を受けて勅別当となりますよ。

永万2年(1166)7月26日近衛基実が急死してしまい親政の支えがなくなったために後白河上皇の院政が復活10月10日に憲仁親王が立太子に即位すると平清盛は「春宮大夫」(春宮というのは立太子=今でいう皇太子)となり、11月には内大臣となりますよ。仁安2年(1167)「太政大臣」になりますが、3ヶ月でやめてしまいました。

翌年に平清盛は病に倒れます。病名は「サナダムシ」といわれていますね。後白河上皇は平清盛の病状から政治不安を起こさないために、あわてて六条天皇を退位させて、憲仁親王を「高倉天皇」として即位されたのですよ。これで平清盛は「天皇の外戚」となったのですね。

海運に力をいれる平清盛

病気が治った平清盛は、ふたたび南宋貿易に熱心となっていきます。瀬戸内海の中継地の「福原(現・兵庫県神戸市)」に別荘「雪見御所」を造営しますよ。そして瀬戸内海には「推古天皇」以来の由緒ある「厳島神社」があり、その神社を立派にすることが念願だったといいますね。その念願かなって寝殿造という現在の姿に整備したのです。

嘉応元年(1169)後白河上皇は出家して法皇となりました。平清盛は後白河法皇とともに東大寺で受戒して入道となります。この頃のふたりは仲はとても良好で、後白河法皇が福原の別荘を訪れて、宋人に面会したり千僧供養をしたり、厳島神社を参拝したりしているのですね。そして平清盛の娘の「徳子」が高倉天皇に入内(じゅだい)して、後の「安国天皇」を産むことになります。平家の栄華はさぞかし煌びやかだったことでしょう。

平氏への反乱ののろし

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武家政権の礎を作ったものの、平清盛は幕府をひらくでもなく(幕府を開けるのは征夷大将軍であり、すでに平清盛の地位は、とっくにその地位を超している)、平家一門はどんどん貴族化していってしまいました。そこで平清盛に新しい時代を期待していた武士達が失望していったのですよ。同時に「成り上がり者」と平家一門を蔑み嫉妬の炎を燃やす公家達なども少なからずおり、平氏への恨みつらみのボルテージが、あちこちから上がっていったのですね。

鹿ケ谷の陰謀

平清盛と後白河法皇は、実は内心は「気に入らない相手」だったようですね。そのふたりの橋渡しをしてとりもっていたのが、後白河法皇の正室で平清盛の義理の妹のだ平滋子だったのでした。その平滋子が亡くなって、ふたりの関係に影がさしてきます。

決定的となったのが、比叡山とトラブルをおこした後白河法皇に懇願されて比叡山に兵を進めていた平清盛に「後白河法皇の側近達が平氏を倒そうと陰謀をしている」という密告がありました。その兵をそのまま会合をしていると通報があった「鹿ケ谷」に向わせて、後白河法皇の側近達を討ったという事件が起きます。その勢いで後白河法皇を幽閉しようと平清盛は行動を始めますが、嫡男の平重盛に涙ながらとめられました。

治承三年の政変

治承3年(1179)6月、近衛家に嫁いでいた平清盛の娘の徳子が亡くなり、つづけて閏(うるう)7月に平重盛が亡くなった時に、後白河法皇はふたりの領地を没収。20歳の「近衛基通」をさしおいて、わずか8歳の「松殿師家」を権中納言に任じるなどの嫌がらせをします。怒った平清盛は福原から兵を率いて都に攻め入り、首謀者の「藤原成親」と「西光」の処刑と参加者の流罪、後白河法皇を幽閉してしまったのです。後白河法皇の院政は事実上崩壊したことになったのですね。

政権は高倉天皇の親政となったわけですが、治承4年(1180)2月に高倉天皇は譲位して「安徳天皇」が即位します。安徳天皇は平清盛の娘の「平徳子」の息子であるので、平清盛は「天皇の祖父」となったのですね。

源氏復興への一石

後白河法皇の第三皇子である「以仁王(もちひとおう)」は秀才の誉れも高く、本来ならば皇位継承者となるのですが、高倉天皇を産んだ平滋子の「自分の子供を天皇に」という妨害から道が閉ざされたのですね。治承三年の政変のあおりを受けて、自分の領地まで没収されてしまったのですよ。そして安徳天皇が即位したことによって絶望したのですね。

治承4年(1180)4月、平氏討伐を決意した以仁は「源頼政」の勧めで「平氏追討の令旨」を全国に散らばる源氏や平氏に不満を持つ武士達に送ります。「最勝親王」と名乗って挙兵をしようとしたのですが、平氏にばれて襲撃を受けて一時は逃れるものの戦死しまったのですね。

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紫蘭