室町時代戦国時代日本の歴史

千利休はどんな人?天下人に仕え茶聖と称された男の生涯をわかりやすく解説

なぜ?どうして?利休切腹の謎を推理!

利休が秀吉から切腹を言い渡された理由については、今なおいくつか説があり、一つに絞り込めてはいないのだそうです。もしかしたら、理由は一つではないのかもしれません。

利休切腹の理由として有名なものをいくつか挙げてみましょう。

まず、茶の湯に対する考え方の違いが、徐々に溝を作っていったのでは?という説があります。確かに、侘びさびを重んじ、ぎりぎりまでものを排除した「不足した状態」をありがたく思う利休に対し、秀吉は何でもキンキラピカピカ、華美で豪華なものを好んでいました。こういう俗っぽいところが、利休にはたえられなかったのかもしれません。親しくなるにつれ、利休のそんな心の内を感じ取った秀吉が腹を立て、行くところまで行ってしまった、という可能性が考えられます。

一方で、利休は商売人としても才能を発揮しており、相当な財産を蓄えていたとか。その額は、秀吉ですら恐れるほどで、利休がいつか自分の脅威になるかもしれないと感じて処断したのかもしれません。あるいは、利休が秀吉の権力を笠に着て私腹を肥やしていると、誰かが秀吉に耳打ちした可能性もありそうです。

また、茶の湯を通じて秀吉の信頼を得た利休が、立場もわきまえず豊臣家の問題や政治のことなどに口出しするようになったので疎まれた、ともいわれています。

そして、最もよく語られているのが「大徳寺事件」です。あるとき、利休が自宅近くの大徳寺というお寺の三門の修繕費用を援助。そのお礼として大徳寺が利休の木像を作ってその三門に祀ります。現在もこの三門は残っていますが、なかなか立派な、大きな門です。

この利休の木像に秀吉の喝が入ります。「門の上に利休の像を置くなんて、門を通る高貴な人の頭を踏みつけるのと同じこと!けしからん!」と激怒。これが原因で切腹となったとか。難癖付けられたような印象もありますが、とにかくこれがもとで、利休は切腹を言い渡された、というものです。

利休が切腹した後、秀吉はあの木像に首を踏ませて晒したという逸話が残っており、そこから、この大徳寺の一件が原因ではないか……いわれています。

戦国時代を生き抜き散った茶聖・千利休の生涯

image by PIXTA / 57710146

茶の湯に詳しい人ならもっと違った見方をなさるのかもしれませんが、お茶に詳しくない当方の興味はもっぱら「千利休=切腹の理由は?」となってしまいます。いったい何が原因だったのか。大河ドラマなどで秀吉や千利休が取り上げられるたび、斬新な演出が施され「なるほど、そういう見方もあったか」と唸らされることもしばしば。本当はもっと単純な理由だったのかもしれませんが……。なぜ利休は切腹させられてしまったのか、決定的な書状でも見つからない限り、永遠のミステリーとなってしまうのかもしれません

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