室町時代戦国時代日本の歴史

南蛮人の技術をパクれ!「鉄砲伝来」の意義とはー日本の産業革命を紐解く

火蓋を切って発射準備OK!

さらに銃身の横に付いている火皿という部分にも黒色火薬をまぶします。これが着火剤代わり。間違って引火しないように火皿にフタをしておくこと。これが火蓋(ひぶた)

そして火縄銃の由来となった火縄に火をつけ、まるで蚊取り線香のようにグルグルと手に巻き付けておき、くすぶっている先端を火挟みで挟みます。

火挟みは火皿から見て斜め上に上がった状態。引き金を引くと「ストン!」と火皿の上に落ちる仕組みになっていました。

轟音と共に発射!

鉄砲の重さは約10kg程度。習熟していなければ狙いをつけることすらままなりません。当時の鉄砲にはスコープ(照準器)というものはありませんでしたから、後ろ側にある凹状の部品(照門)に、銃口の凸状(照星)の部分を合わせます。いわゆるオープンサイトというものでした。

射程距離はせいぜい100メートル以内ですが、鉄製の甲冑を撃ち抜ける可能性がある距離はほんの50メートルしかありません。それでも耳をつんざく轟音で人馬を驚かし、敵勢の勢いを止めるには十分だったといえるでしょう。

発射の衝撃も凄まじいものですし、火薬が顔の至近で爆発するわけですから、多くの鉄砲足軽たちが顔に火傷を負い、聴覚障害になったものも少なくなかったでしょう。

また、これら一連の下準備をした上で射撃が可能になるシロモノでしたから、熟練者ですら発射まで約45秒も掛かってしまうそうです。敵味方が入り乱れる戦場においては致命的な欠陥であり、これは後述しますが、発射までのタイムラグを無くすために様々な対応策が考えられていたそう。

鉄砲にまつわる逸話は本当のこと?

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徳川美術館 – Tokugawa Art Museum, Japan, パブリック・ドメイン, リンクによる

鉄砲の登場によって戦術が一変してしまった戦国時代ですが、鉄砲に関する逸話も多く残されていますね。そこでいくつかご紹介していきましょう。本当か?ウソなのか?判断するのはあなた次第です。

発射時間が劇的に速くなった!【早合】

「鉄砲の撃ち方」の項では発射までに約45秒を有すると記述しましたが、鉄砲に習熟していた雑賀衆、根来衆などの武装集団は早くからその欠点を克服していました。

それが「早合(はやごう)」と呼ばれるもの。いちいち袋から火薬を目分量で流し込んでいたのでは到底間に合いません。そこで事前に紙や皮製の小袋に一発分だけの火薬と弾丸を詰め合わせたものを準備しておき、いざ撃つ段階になって袋ごと注ぎ込めば準備の時間は飛躍的に早まります。この方法なら熟練者で15秒程度で発射準備が完了していたそう。

また雑賀衆たちはこの他にも、射手と準備手を分けておき、射手が射撃している間にもう一人が弾丸装填の準備をしていたそうで、間断なく射撃をすることが可能だったそうです。準備手の数が多ければ多いほど連発が可能になりますが、その分鉄砲の数も必要となります。金銭的に恵まれていた雑賀衆ならではの戦術だったということでしょう。

【長篠の戦い】の鉄砲三段撃ちはウソ!?

1575年に起こり、織田徳川連合軍が圧倒的な鉄砲戦力をもって武田軍を撃破したとされる「長篠の戦い」。通説では3千挺もの鉄砲を三段に分けて発射したというのですが本当でしょうか?

実はこの逸話には信憑性はありません。戦場跡へ行けばわかりますが、連吾川という小川を挟んだ地形は非常に狭く、そこに大軍を展開させるには無理があるということがいえますね。また武田騎馬隊を阻止したという馬防柵も復元されていますが、当時は武田軍の迂回を防ぐために2キロの長さに渡って構築されていたようです。一斉射撃をする際には必ず指揮官の「放てー!」というおなじみの号令が必要になります。しかし2キロにも及ぶ縦長の布陣なのにタイミングよく号令が届くものなのでしょうか。

また戦場跡から発掘された鉄砲玉は思ったより多く出土していません。3,000挺もの鉄砲が放ったのであれば、もっと数多くの弾丸の遺物が見つかっているはずでしょう。

武田軍についても本当に騎馬隊で突撃したのか?という疑問が残りますね。騎馬隊が展開できる地形ではありませんし、何より織田徳川軍は川向こうの舌状台地の上に布陣していますから、アップダウンが激しすぎて馬に乗っていれば逆に不利になります。最新の史料研究によれば、当時の軍役から武田軍の兵種を割り出したところ、騎馬隊がたった1割に過ぎないことが分かっているのです。

最後に決定的なウソの証拠として、鉄砲三段撃ちの記述が載っている史料は江戸時代に入ってから編纂された「信長記」のみ。逆に信憑性に足る「信長公記」などの一次史料には一切載っていない事柄なのですね。

正しくはこうではないでしょうか。織田徳川軍は1,000挺程度の鉄砲は持っていて、それらは重点箇所に配置されました。武田軍は徒歩で敵の陣営に打ち掛かり、それはあたかも攻城戦のような光景だったことでしょう。しかし兵の数は圧倒的に織田徳川方が多いため、精強な武田軍といえど攻めあぐね、結局は退却の途中で次々に名のある武将が討たれていった。という感じです。

壮絶な銃撃戦が展開されていた?【島原の乱】

江戸時代前期に九州で起こった島原の乱ですが、圧政に苦しんだ農民たちが主体となって起こした農民一揆としてあまりにも有名です。しかし原城に立て籠もった一揆軍の主力武器が鉄砲だったことをご存じでしょうか?

時代は幕府の武断政治が猛威をふるっていた時。次々に外様大名たちの藩が取り潰されるに伴い、刀槍類をはじめ大量の鉄砲が市場に出回っていたことでしょう。それゆえ武器類を購入するのはたやすいことでしたし、何より鳥獣狩猟のための鉄砲の所持は公に認められていました。

当時は思ったより鉄砲はポピュラーな武器でしたし、原城に籠った一揆軍が鉄砲を数多く所持していたこともうなずけますね。さらに一揆軍が襲った代官所からも多くの鉄砲を略奪されていますから、農民一揆どころか屈強な武装集団という表現の方が当たっているかも知れません。

また原城もいったんは廃城になったとはいえ、高い石垣や重厚な城門はそのまま残っていたため、有効な防御拠点として機能していました。

戦いが始まると、その圧倒的火力で幕府軍を寄せ付けず、多くの損害を被った幕府側は持久戦に切り替えざるを得ませんでした。また城内でも弾丸の製造が行われていたといいますから、まさに銃撃戦と呼んでも差し支えないでしょう。

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明石則実