隠居しても最前線に身を置いた「鬼義重」
せっかく悠々自適の隠居生活を送ろうと思っていた矢先の減転封となってしまった義重でしたが、新しい赴任先では、旧領主派が佐竹氏に対して一揆を起こす可能性もありました。このため、義重は隠居の身ながらも、最も一揆が起きた場所の城に入り、睨みを利かせたそうです。
常陸から出羽へ移れば、気候も違います。しかし、義重はずっと敷布団代わりに薄い布一枚を敷いて寝る生活を続けていました。それを見た息子の義宣は、父のためにと寝間着や布団を贈ったそうですが、義重はどうも肌になじまず、しかも暑いと言い出し、元の薄い布に戻してしまったとか。さすが「鬼義重」らしいエピソードですね。
そんな義重ですが、慶長17(1612)年、大坂の陣が始まる前に、狩猟中の落馬によって命を落としました。66歳でした。
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美人は好きだが実は美少年も!?
これはあくまで逸話ですが、佐竹氏が出羽に移ることになった際、義重は国中の美女を集めて連れて行ったのだそうです。それが、秋田美人の大元なんだとか。そして、佐竹氏の後に常陸に入った徳川頼房(とくがわよりふさ)は、常陸に美人がいないことを義重に抗議すると、義重は不美人ばかりを頼房のところに送り届けたとも。
また、戦国武将の例に漏れず、義重は美少年も好んだようですよ。
先に登場した蘆名盛隆は美男子だったと伝わっていますが、当初は敵同士でした。しかし、戦場で盛隆の姿を見た義重は一目ぼれしてしまい、熱烈なラブレターを送ったそうです。盛隆もそれに応じ、やがて戦をやめて佐竹と蘆名は和睦することになったとか…。
英雄色を好むとも言いますが、こんなエピソードを聞くと、鬼義重も人間味あふれる人物なのだなと思いますね。
バランスの取れた武将だった義重
群雄が割拠した戦国時代の関東において、義重は戦場での強さと外交力を併せ持った、バランス感覚にすぐれた武将だったと思います。彼でなければ、伊達と後北条の圧力から逃れたり、関ヶ原の戦いの後の改易危機を乗り切ったりすることはできなかったでしょう。出羽に移った佐竹氏はそこで藩主として幕末まで続き、今も血統は存続しています。鎌倉以来の命脈を保ち続けることができたのも、ひとえに義重の存在があったからではないでしょうか。