アメリカの歴史独立後

国際連盟設立を提案した理想主義者「ウィルソン大統領」を元予備校講師がわかりやすく解説

第一次世界大戦への参戦

1914年、ヨーロッパで第一次世界大戦がはじまりました。ウィルソンは大戦に対し、厳正中立を守ると表明します。ヨーロッパ諸国間の争いにアメリカは関与しないというモンロー宣言以来の孤立主義を尊重したからでした。

大戦がはじまると、海軍力に劣るドイツは潜水艦を多用し、連合国や連合国に物資を運び込む中立国の船を撃沈します。

1915年、ドイツの潜水艦はアメリカに向かっていたイギリス客船ルシタニア号を撃沈しました。ルシタニア号には多数のアメリカ人が乗船しており、130名近くのアメリカ人が犠牲となりました。

ルシタニア号事件はアメリカ世論を硬化させます。ウィルソンは、ドイツに厳しい態度をとるとともに、議会に対し、協商国側として参戦するよう提案、これを受け、アメリカ議会はドイツに対して宣戦布告しました。

ウィルソンの十四カ条の発表

1917年、ロシアで革命が勃発しロシア帝国が崩壊しました。ソヴィエト政権を樹立したレーニンは「平和についての布告」を発表し、無賠償・無併合と即時講和、秘密外交の廃止などを宣言します。

これに対し、ウィルソンは1918年の議会演説で「十四カ条の原則」を発表しました。十四カ条の原則の内容は、大きく分けて4つに分けることができます。

まず、第一に国際協調の原則。講和交渉の公開や秘密外交の廃止、軍縮などを提案しました。第二に、国境問題の調整。ベルギーやアルザス=ロレーヌ、未回収のイタリアなどが含まれます。

第三に、大帝国に支配されていた諸民族の民族自決。特に、オーストリア=ハンガリー帝国やオスマン帝国に支配されていた諸民族の独立やバルカン諸国の独立保障などからなります。最後は国際平和機構の設立。これにもとづき、国際連盟が設立されます。

パリ講和会議

1917年、アメリカが協商国として参戦したことにより、戦争は協商国の有利に進みました。1918年11月、敗色濃厚となったドイツでキール軍港の水兵反乱が勃発。革命はドイツ全土に及び皇帝ヴィルヘルム2世は退位に追い込まれました。

ドイツの降伏により、1919年にパリ講和会議が開かれます。パリ講和会議において、ウィルソンの十四カ条は講和の原則として採用されました。ウィルソンはパリ講和会議に出席し。敗戦国に対する過酷な制裁に強く反対します。

しかし、ドイツなどと戦い国力をすり減らしたイギリスやフランスはドイツに巨額の賠償を科し、二度とドイツが軍事大国にならないよう軍事力を制限することを主張しました。

最終的に、イギリス・フランスの主張が採用され、ドイツに対する巨額な賠償金が認められました。この支払不可能ともいえる巨額の賠償金は、ナチス=ドイツ台頭の遠因となります。

国際連盟の設立と上院の反対

1920年1月10日、世界最初の国際平和維持機構として国際連盟が設立されました。国際連盟は、集団安全保障を推進することで二度と世界大戦を引き起こさないことを目的とした機関といえます。

国際連盟の本部はスイスのジュネーヴに置かれました。国際連盟の常任理事国にはイギリス・フランス・イタリア・日本がなります。

ウィルソンとしては、アメリカも国際連盟に加盟すべきだと考えていました。ウィルソンは大国となったアメリカは、孤立主義に戻ることは許されず、集団安全保障の枠組みに参加しなければならないと訴えます。

ところが、アメリカ国内では国際連盟加盟に反対する意見が強まっていました。反対する人々は、アメリカはヨーロッパに干渉せず、ヨーロッパからの干渉を受け付けないとする孤立主義に戻るべきだと主張します。

ウィルソンは全国各地を遊説して支持を訴えましたが、世論を変えることはできません。世論を背景とした反対派は上院で国際連盟への加盟を否決しました。

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