自由貿易体制の確立
18世紀中ごろに産業革命が始まったイギリスは、世界の工場として経済力をアップさせていきました。国家が産業を保護する重商主義政策よりも、国の関与をできるだけ減らし、企業が自由に活動できる環境をととのえる自由貿易のほうがイギリスを成長させるのに都合がよくなります。
1839年、ナポレオン戦争の後に制定された穀物法を廃止せよという反穀物法同盟が結成されました。穀物法はナポレオン戦争後に安い農作物が流入することで、イギリスの農家が打撃を受けないようにするための法律でしたが、穀物価格が高止まりする原因ともなります。
1846年、穀物法はついに廃止になりました。ほかにも、イギリスは奴隷貿易の廃止や一種の貿易制限である航海法を廃止します。国が様々な規制を取り払うことで、イギリスの企業はより自由な活動が可能となりました。こうした改革はイギリスの経済的繁栄を加速させます。
ロンドン万博
1851年、ロンドンで第一回ロンドン万国博覧会が執り行われました。博覧会準備の中心的存在となったのがアルバートです。ロンドン万博の開会式にはヴィクトリア女王自らが出席。まさに、国家的な大プロジェクトとなりました。
ロンドン万博で一番の目玉となったのは万博会場となった水晶宮。ロンドンのハイドパークに建てられた水晶宮は30万枚ともいわれるガラスで覆われた建物でした。ロンドン万博には30カ国以上が参加し、世界各地から珍しい品物が集められました。
ヴィクトリア自身も万博に対する思い入れが強く、週に一度は会場となった水晶宮を訪れるという熱の入れようです。
ロンドン万博の開催期間は140日。期間中、のべ600万人が万博会場に来場したとされます。アルバートが尽力したロンドン万博は大盛況のうちに幕を閉じ、多額の収益を上げることができました。
ヴィクトリア女王の治世後半
ヴィクトリア女王の治世後半、イギリスでは二大政党が力を持つようになりました。1850年代の後半、アルバートは徐々に健康を害し1861年の12月に亡くなります。最愛の夫の死にショックを受けたヴィクトリアは10年にわたって政治の表舞台から姿を消しました。ヴィクトリアが本格的に公務に復帰するのは1870年代に入ってからです。1870年代にヴィクトリアの下で政権を担当したのが保守党のディズレーリでした。
ヴィクトリア朝の二大政党
ヴィクトリア女王の時代、議会では二つの政党が中心となって互いにしのぎを削っていました。一つはホイッグ党。1859年からは自由党と名乗ります。
自由党は産業資本家を支持基盤とし、自由貿易やアイルランドの自治に賛成しました。外交面では、植民地に自治を与え、政府の関与を小さくするべきと主張しました。自由党の指導者であるグラッドストンです。
もう一つはトーリ党。1834年から保守党と名乗ります。保守党は地主や貴族を支持基盤としました。伝統的な秩序の維持や保護貿易を主張し、アイルランドの自治には反対します。
また、外交面では積極的な植民地獲得を狙う帝国主義政策を推し進めました。代表的な政治家はディズレーリです。ヴィクトリア朝の後半は自由党のグラッドストンと保守党のディズレーリが交互に政権を担当しました。
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アルバートの死
ヴィクトリアと結婚後、アルバートはロンドン万博の成功をはじめ数々の改革を実行しました。宮廷経費の見直しや経費管理をしっかり行うことで年間25,000ポンドもの経費削減に成功します。
しかし、バーディとよばれた息子のエドワード皇太子には手を焼いたようでした。エドワード皇太子は厳格に育てられたことへの反発か、若いころは不良行為が多かったと伝えられます。
アルバートは体調を崩していたにもかかわらず、息子に説教をするためエドワード皇太子が学んでいたケンブリッジ大学を訪問しました。そのため、アルバートの体調はさらに悪化します。
12月13日、手遅れの腸チフスと診断されたアルバートは危篤状態に陥りました。翌14日、一時的に持ち直しましたが正午には一気に悪化。そのまま亡くなってしまいます。
悲しみに暮れたヴィクトリアはアルバートが建てたオズボーン=ハウスやスコットランドの城に隠遁してしまい、政治の表舞台から10年以上にわたって姿を消して喪に服しました。
「忠臣」ディズレーリへの寵愛
ヴィクトリアが喪に服している間、保守党内で力をつけていった政治家がディズレーリでした。ヴィクトリアは最初、ディズレーリに良い印象を持っていなかったようです。
しかし、ディズレーリが亡き夫であるアルバートを称え、記念碑を立てることに尽力したことがきっかけとなり、彼に対する印象が好転しました。
1868年から1874年まで、自由党のグラッドストンが首相として政権を運営します。しかし、グラッドストンとヴィクトリアはアイルランド自治法などについて対立していました。
1874年、庶民院の総選挙で保守党が勝利。ディズレーリが首相に指名されます。ディズレーリはヴィクトリア女王と協調して政治を行ったため、「忠臣」としてヴィクトリアから厚く信任されました。
ディズレーリは帝国主義的な外交を実践。1877年にはヴィクトリアをインド帝国の女王にするなど、世界各地を植民地としていきました。