古墳時代日本の歴史

百舌鳥・古市古墳群の中で最大規模の「大仙古墳」を元予備校講師が分かりやすく解説

世界遺産、百舌鳥・古市古墳群とは

2019年7月、大阪府堺市周辺の百舌鳥古墳群と、大阪府羽曳野市、藤井寺市にまたがる古市古墳群は世界文化遺産に登録されました。どちらの古墳群も5世紀から6世紀にかけての古墳時代中期に造営されたものと考えられます。

百舌鳥古墳群の中核となるのは大仙古墳(大仙陵古墳)ミサンザイ古墳。ともに墳丘の長さが200メートルに達する巨大前方後円墳ですね。巨大古墳はいずれも上町台地に続く台地に築かれています。古代の海岸線のすぐ近くであることから、大阪湾の船からも古墳の姿がはっきり見えたでしょう。

古市古墳群は、応神天皇陵と伝えられる誉田御廟山古墳など123基の古墳群。百舌鳥古墳群に比べ、内陸にあります。古市古墳群のある羽曳野市や藤井寺市は、大阪と奈良を結ぶ重要交通路でした。大阪から飛鳥方面に移動するとき、古市古墳群を見ながら通過したことでしょう。

大仙古墳について

大仙古墳は大阪府堺市にある巨大な前方後円墳です。墳丘の長さは525メートル。前方部も後円部も3段で構成されました。墳丘は周りを壕によって囲まれ、現在は水で満たされています。古地図などによれば、三重の堀に囲まれていたようですね。

古墳が作られた当初、墳丘上に樹木などはなく、埴輪や葺石によっておおわれていました。完成直後は、周囲の自然と異なり人工的な建造物だったことがわかります。

現在と異なり、江戸時代には古墳に自由に立ち入ることができました。1757年に書かれた記録によると、後円部の埋葬施設は一部露出していて、長持型石棺の姿が確認できたようです。棺の中は既に盗掘されていたと記録されていますよ。

明治時代の調査では、甲冑や鉄刀などが中期古墳でよくみられる武具が出土しました。明治時代の調査では、石棺を開封した調査は実施されていません

大仙古墳の周囲には陪塚(ばいづか)とよばれる小規模な古墳があります。永山古墳や孫大夫古墳が大仙古墳の陪塚と考えてよいでしょう。

被葬者とされる仁徳天皇とは

仁徳天皇は応神天皇の第四皇子で、日本の第16代天皇です。仁徳天皇が死去したのち、皇太子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が即位するはずでしたが、皇太子が死去したため仁徳天皇が即位しました。

即位後、仁徳天皇は難波高津宮に都を移します。仁徳天皇が即位してから4年後、天皇が周辺の家々を見ていると、家から炊煙がたっていないことに気が付きました。仁徳天皇は民の暮らしが困窮しているからだと考え、3年間にわたり租税を免除します。

仁徳天皇は自分の宮殿の屋根を覆っている茅の葺き替えを行わず、民に負担をかけないようにしました。「仁徳」という天皇号が贈られたのは、天皇が民を想い仁政を施したからです。

仁徳天皇は即位67年後に百舌鳥耳原の地を自らの陵墓と定めました。『日本書紀』では110歳、『古事記』では83歳で死去したと伝えられます。

仏教の伝来と古墳の衰退

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倭の五王の時代から50から100年後、朝鮮半島から日本に仏教がもたらされました。蘇我氏や聖徳太子は積極的に仏教を受け入れ国づくりに役立てようとします。一方、古墳は規模を縮小させていきました。8世紀に入ると皇族・貴族や僧侶などが火葬されるようにありました。奈良時代以降、大規模な古墳は姿を消します。

仏教の伝来

6世紀の中ごろ、朝鮮半島の百済から仏教が伝来します。蘇我氏や一部の皇族は積極的に仏教を取り入れようとしました。一方、物部氏や古墳時代以来、祭祀をつかさどってきた人々は仏教を外来の神であると考え、仏教を排除しようとします

蘇我氏をはじめとする仏教を信奉する崇仏派と仏教を排除し、古墳時代以来の伝統的な祭祀を重視する物部氏を筆頭とする排仏派が朝廷で激しく対立します。

587年、蘇我馬子と物部守屋の対立が激化し、ついには戦いとなりました。聖徳太子ら嵩仏派は蘇我馬子とともに物部守屋と戦い勝利します。

以後、朝廷では仏教が国づくりの柱となっていきました。古墳時代以来の祭祀が途絶えることはありませんでしたが、飛鳥時代や奈良時代は、仏教の陰に隠れてしまいます。

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