古墳時代日本の歴史

百舌鳥・古市古墳群の中で最大規模の「大仙古墳」を元予備校講師が分かりやすく解説

古墳時代後期に見られた小型の古墳

6世紀から7世紀、古墳時代の後期から末期になると巨大な古墳は作られなくなります。変わって登場したのが群集墳でした。群集墳は、丘陵上や山の斜面に密集してつくられた小規模な古墳です。

群衆墳では中期までの大型古墳と異なり、周濠で他の古墳と区別されることはあまりありません。一つ一つの古墳の規模は小さくなりましたが、古墳の数は一気に増えています。小規模であれ、古墳を作ることが認められるようになったからかもしれません。

代表的な群衆墳は、奈良県の新沢千塚古墳群や和歌山県の岩橋千塚古墳群です。1960年代、同志社大学が新沢千塚古墳群の調査を行いました。このとき、副葬品として武具や馬具だけではなく、金・銀・ガラスなどの装飾品も出土します。また、ローマ帝国産のガラスも出土し、古代の交易範囲の広さを示しました。

薄葬令と火葬の浸透

645年、中大兄農事と中臣鎌足が中心となり蘇我入鹿を滅ぼしました。これにより、大化の改新が始まります。改新政治の内容の一つに薄葬令というものがありました。

薄葬令とは、身分に応じて葬儀や墳墓を造営せよという命令です。同時に、天皇陵でも7日で完成させよと規定しているため、大規模な土木工事を伴う巨大前方後円墳の築造が不可能となりました。

また、7世紀の末には仏教の影響で火葬が広まります。700年に僧の道昭が火葬されたことを皮切りに、天皇家を含む支配者層も火葬に付されるようになりました。最初に火葬された天皇は702年に死去した持統天皇です。

持統天皇は個別の古墳に葬られず、夫の天武天皇の墓に合葬されました。薄葬令の発布と火葬の普及により、前方後円墳をはじめとする巨大古墳は姿を消します

世界遺産登録は、大仙古墳が再評価されるきっかけになるかもしれない

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5世紀を中心に築造された巨大前方後円墳は、このころの大王や有力豪族の勢威を現在に伝えています。今回取り上げた大仙古墳は、最大規模を誇る大仙古墳は世界的に見ても非常に大きな墳墓でした。2019年の世界遺産登録を機に、人々の関心が古墳に向けば、より詳しい調査を実施することができるかもしれませんね。

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