日本の歴史

日本遺産に認定された巡礼「西国三十三所巡り」とは?歴史と代表的な札所寺院を元予備校講師がわかりやすく解説

第八番札所 長谷寺(はせでら)

長谷寺は奈良県桜井市にある真言宗の寺院。初瀬山の中腹に立つ本堂からは、奈良県と三重県を結ぶ初瀬街道を見下ろすことができます。古くから牡丹の名所として知られ、「花の御寺」とよばれました。枕草子や源氏物語、更級日記などの古典にもたびたび登場する名刹です。

創建年代ははっきりとわかっていませんが、平安時代初期には国分寺や国分尼寺に次ぐ寺格を持つとされる定額寺とされました。長谷寺は平安時代中期以降、観音霊場として貴族たちの信仰を集めます。古典文学にたびたび登場するのもそのためですね。

おとぎ話の一つ「わらしべ長者」の中に出てくる観音は、長谷寺の観音です。長谷寺の観音に願をかけた男がわら一本から富を得ていく物語ですね。長谷寺の観音にはそれだけの力があると考えられていたから生まれた物語でしょう。

第九番札所 興福寺

興福寺は南都とよばれた奈良でも指折りの大寺院。創建は藤原鎌足と鎌足の子である藤原不比等とされます。興福寺は藤原氏の氏寺であり、古代から大きな力を持つ有力寺院でした。興福寺の中にある南円堂は西国三十三所の第九番札所です。

藤原北家繁栄のきっかけを作った藤原冬嗣が父の冥福を祈って立てたお堂ですね。藤原氏の中でも、藤原北家は平安時代に摂政・関白の地位を独占しました。そのため、興福寺の中でも南円堂は特別な位置を占めます。

興福寺の本尊は不空羂索観音像。不空羂索観音は鹿の毛皮をまとう観音です。藤原氏の氏神である春日大社は鹿で有名な神社でもあるため、藤原氏は鹿の毛皮をまとう不空羂索観音像は特に篤く信仰しました。

南円堂は何度か立て直されていますが、現在の建物は1789年に建立されたものです。建築様式は江戸時代よりも以前の古風なスタイルを採用しました。

第十一番札所 醍醐寺(だいごじ)

醍醐寺は京都市伏見区にある真言宗の寺院。平安時代の874年に創建された寺院で、豊臣秀吉醍醐の花見を催した場所としても知られます。醍醐寺を開いたのは空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝。時の帝である醍醐天皇が自らの祈願時としたため、壮麗な伽藍を持つことができました。

室町時代後期になると、戦国時代の兵火に巻き込まれ多くの建物が焼失します。豊臣秀吉が天下を統一した後、三宝院などが再建され現在の形となりました。

西国三十三所の札所となっているのは上醍醐の准胝堂(じゅんていどう)。本尊となっている准胝菩薩は観音菩薩の変化形である六観音の一つですね。

准胝堂は1939年に山火事によって焼失してしまいました。1968年に一度再建されますが、落雷が原因で2008年にふたたび焼失してしまいます。現在、札所は下醍醐の観音堂とされていますので注意しましょう。

第十四番札所 三井寺(みいでら)

三井寺は滋賀県大津市にある天台宗寺院です。三井寺は通称で、本来の名は園城寺といいます。園城寺は古代氏族の大友氏の氏寺として創建されました。一時すたれていましたが、比叡山延暦寺の僧だった円珍が868年に園城寺を賜り再興します。

円珍の死後、延暦寺では円仁の弟子たちと円珍の弟子たちが事あるごとに対立。ついに、円仁派の僧たちが円珍派の建物を破壊するに至り、円珍派は比叡山を下山し園城寺に移りました。以後、延暦寺に残った円仁派は「山門派」、園城寺に移った円珍派は「寺門派」と呼ばれるようになります。

三井寺観音堂の本尊は如意輪観音。開山である円珍が自ら彫刻したと伝えられます。室町時代の1477年、三井寺の僧の夢の中に老僧が現れ、女人結界がなく誰でも参拝しやすい場所に移って衆生を救いたいと申し出ました。

三井寺の僧侶たちは老僧が如意輪観音ではないかと考え、観音堂を山の下に参拝しやすい場所に移したといいます。

第十六番札所 清水寺(きよみずでら)

清水寺は京都市東山区にある寺院で、清水の舞台でしられる北法相宗の寺院です。清水寺は平安遷都が行われた794年以前からの歴史を持つ古い寺院で、石山寺や長谷寺と並ぶ日本有数の観音霊場とされてきました。

清水寺の創建に関わったとされるのが朝廷の東北遠征で司令官の征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂です。田村麻呂は妻の病気を治す薬の原料である鹿の生き血を求めて東山に来ました。そこで、延鎮という僧侶に殺生を戒められ、鹿を狩るかわりに観音堂を寄進します。東北遠征に向かう前、坂上田村麻呂は清水寺に戦勝祈願を行いました。

清水寺の観音像は十一面千手観世音菩薩。11の表情と42の手が観音の慈悲を表し、衆生に現世利益をもたらすとされます。無病息災や立身出世などを願う人々が昔から数多く参詣してきました。

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