室町時代戦国時代日本の歴史

5分でわかる「伊達政宗」-独眼竜の由来は?刀は?その生涯をわかりやすく解説

4.「独眼竜」の由来

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「独眼竜」の意味は、「片目を失った英雄」です。日本では先ほどからご紹介している、「伊達政宗」を指すことが多いとか。でも、どの歴史文献を調べても、ひとつとして伊達政宗が「独眼竜政宗」と呼ばれていたという記録は残っていません。この章では、「独眼竜」の由来について、お話ししたいと思います。

4-1.「独眼竜」の最初は中国の武将だった

「独眼竜」とのあだ名をはじめてつけられたのは「政宗」ではなく、中国の武将「李克用(りこくよう)」という人物です。彼は、856年10月24日に誕生し、生まれつき隻眼でした。その障害を克服し、とびかかってくる敵を片端からなぎ倒す、周囲から恐れられるほどの名武将でした。そこから、あれは独眼の竜じゃといわれ、「独眼竜」とのあだ名がつけられたようです

その武功ぶりは有名で、数年たった遠い日本人で政宗の教育係だった虎哉宗乙が知っていたほど。李克用は、自らの軍に黒で統一した甲冑を着せており、黒軍団は「鴉軍(あぐん)」と呼ばれていました。

ちょっと雑学

政宗の黒の甲冑は、黒漆を使った斬新なデザインで作られており、「伊達者」とのあだ名にもピッタリ。機能的なもので、動きやすく頑丈に作られているようです。実際の合戦で、矢や鉄砲の弾から、政宗を守っています。

この甲冑をピカピカに磨き大切にしていた政宗は、死を前に「わしが死んだら甲冑も一緒に埋めてくれ。」と言い残しています。1974年に政宗の墓が調査された時、遺言通りに墓の中から甲冑が発見されました

4-2.初代独眼竜「李克用」とはどんな人?

李克用は、中国五大後唐の第一代皇帝荘宗(そうそう)の父で、後唐の太祖と呼ばれる人物です。おくりなは「武皇帝」。唐末から五代十国時代に活躍した武将で、朱全忠と並ぶ唐末群雄の一人です。先ほど触れました、黒で統一した勇猛な精鋭軍「鴉軍」を引き連れ戦い、黄巣の乱平定で反乱軍を破った武功から、河東節度使に任ぜられる出世を果たしました。

黄巣の乱平定で二大勢力となった後梁の朱全忠と対立しますが、残念なことに勢力争いで敗れてしまいます。河北を制して激しく戦うも病に倒れ、息子に思いを託し病死しました。

4-3.独眼竜政宗は江戸時代に誕生した

伊達政宗の「独眼竜政宗」という呼び名は、文政6(1823)年に頼山陽(らいさんよう)がつけたといわれています。政宗が登場する漢詩「多賀城瓦硯歌」の中の一節に「河北終ニ帰ス独眼竜」があり、ここから呼ばれるようになったようです。

どうして独眼竜となったかというと、先ほどお話しした片目の中国の武将「李克用」になぞらえて呼んだのが発端とか。政宗は隻眼を気にして、生前に書かれた肖像画は両目とも開いて描かれています。でも、不自由な右眼は小さく、健全な左眼は大きく表現されているようです。

「両親からもらった大切な片目を失ったのは親不幸だ。木像や絵くらいは生まれた時のように両眼を開けて書いて欲しい」と言い残しています。

障害を負いながらも武勇に優れた武将として名高い政宗は、現代人にも勇気を与えている

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李克用の時代から伝わる「独眼竜」というあだ名は、隻眼でも人の何倍も努力をすれば、人の上に立つヒーローになれることを私たちに教えてくれているように思います。黒い鎧を着て東北を征服した伊達政宗が、自分を憧れの存在「李克用」に見立てて、戦場を走り回る姿が目に浮かぶようですね。

 

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