室町時代戦国時代日本の歴史

5分でわかる「伊達政宗」-独眼竜の由来は?刀は?その生涯をわかりやすく解説

3-1.秀吉も驚愕!白装束で現れた政宗

大名同士が勝手に戦うことを禁ずる秀吉の「惣無事」を無視し、蘆名氏を滅ぼしたのです。秀吉は、京に上るよう何度も命令を下しますが、政宗は無視。秀吉が北条攻めで小田原城を包囲したときは、政宗も覚悟を決め豊臣に服従を決心し参陣を決めました。

毒汁騒動で参陣に遅れた政宗は、殺されるかもと思っていました。知勇兼備ぶりを発揮し、死者が着る白装束で登場します。「死を覚悟で参上した」との気持ちを示すものでした。秀吉は「あっぱれ!こいつは使える」と思ったとか。でも、政宗は「秀吉を撃てば天下は俺の者だ!」と思っていたのです。

秀吉が天下を統一した「奥州仕置き」の後で起った、「葛西・大崎一揆」の罪を着せられます。その弁明に京の秀吉のもとに参上した時も、白装束に金の磔柱を担ぐという派手な登場をするのです。今度こそは命はないと思うも、この時も秀吉に許され、後は朝鮮出兵への参陣や吉野の花見に参加するなどかわいがられました。

3-2.「伊達男政宗」の登場

秀吉の朝鮮出兵の時、政宗には1500の兵をだすように求められました。田舎者だと馬鹿にされていたことで、見返そうと政宗は3000の兵を用意するのです。朝鮮出兵の拠点名護屋城へ向かう部隊の出陣式の行列でのこと。前田家、徳川家に続き3番目には、黒を基調に金を組み合わせたいでたちの、煌びやかな軍勢が行進してきたのです。これが、政宗軍でした。

伊達隊は「勝色(濃い紺色)金日の丸旗」を30本も掲げ、鉄砲や弓、槍を持つ下級武士たちは、1mもある高さの金のとんがり傘を被っていたのです。朱色のさやの刀を持ち、胸と背に金色の星で飾られた甲冑をつけていたとか。馬に乗った武将たちは、黒いいでたちで、馬には豹や虎、孔雀などの毛で飾られていました。伊達軍の姿に、京の人々は「伊達男」や「伊達者」と歓声をあげ、褒め称えるほどの華やかさだったようです。ここから、人目を引くような派手な衣装を着る人を、「伊達者」と呼ぶようになりました。

ちょっと雑学

政宗は、生涯19回の戦をしています。ほとんどが自分で軍勢を率いており、家臣を派遣したことは大崎合戦1回のみでした。鉄砲の連続射撃や騎馬鉄砲隊を作るほど、鉄砲での戦も得意としています。また、「黒脛巾組(くろはばきぐみ)」という忍者軍団も結成して敵軍情報を集めたりしていました。

伊達家を継いですぐのころ、「小手森城の戦い」で皆殺しを行ったことは有名な話。政宗を裏切り蘆名家についた大内定綱が許せなかったため、8000丁もの鉄砲を使い城に残った兵士の他、農民や女性も皆殺しにします。この戦いで、政宗を敵に回すと怖いと思わせ、伊達軍の強さを知らしめたようです。

3-3.本当は天下を狙っていた?

関ヶ原の戦いで家康から「百万石のお墨付き」をもらい東軍につき、命令通り上杉軍を破るも、戦後家康から賜った領地は、上杉領49万石の内の2万石とごく僅かでした。慶長6(1601)年には、領地全てを治めるため、青葉山の断崖の上に山城を建て移りました。これが、奥州最大の仙台城(青葉城とも)。

巨大な城下町も同時進行でつくられ、62万石の仙台藩が誕生したのです。城は石垣と塀で囲まれた本丸の城郭の隅には櫓があり、天下を狙っていると思われないよう、天守は造られていません。

しかし、大広間には、彫刻や絵画で飾られ豪華な設えだったとか。政宗が亡くなる時に、「この城は戦うための城で、平和な世の中には相応しくない。建て替えよ。」と、言い残したようです。実は、死ぬ間際まで天下を狙っていたのかも。

ちょっと雑学

政宗は、仙台城を築く前に、「千代(せんだい)」を「仙台」に改名しています。仙台藩が誕生したときは62万石でしたが、水路建設や新田開発などの積極的なインフラ整備により、享保3(1718)年の江戸中期には、100万石を超えていたといわれています。

3-4.世界へ目を向けた政宗

宣教師ルイス・ソテロとの出会いも、政宗の人生で重要です。慶長18(1613)年には銀の産出国メキシコ(スペイン領)との貿易で仙台を豊かにしようと、スペインとの通商条約を結ぶため、支倉常長を副使に任命し「慶長遣欧使節」を派遣します。2本のマストを持ち全長32mもある大船サン・ファン・バウティスタ号に、常長やソテロ、商人など180人が乗り月の浦(現:宮城県)から、メキシコ、スペイン、ローマへと旅立ちました。

政宗はメキシコとの貿易のためなら、キリスト教の布教を許したのですが、幕府がキリスト教を禁止し鎖国も行い、貿易交渉は失敗します。実は、スペインとは同盟を結ぶ気で、スペインの軍事力を使い幕府を倒し天下を乗っ取ろうとしていたとか。

政宗は苦い経験から天下人になることを諦め、仙台藩のインフラ整備など繁栄に情熱を傾け見事に成し遂げたのです。もう少し早く生まれていたら、天下人になれたといわれています。

3-5. 死ぬ間際まで「伊達者」を貫いた

仙台城を建築しながら城下町の整備をする際、資材を運ぶため約15kmの運河が作られます。運河は、商業や農業にも利用され重要な交通路になり「貞山掘」と呼ばれました。

大坂冬の陣と翌年の大坂夏の陣を経て、平和な時代を迎えます。1622年に実母が身を寄せていた、最上家は領地を没収されました。政宗は、母を仙台城へ招き、28年ぶりに再会。多趣味な政宗は和歌を詠んだとか。

70歳の年に、参勤交代で江戸滞在中の桜田上屋敷で病のため逝去します。将軍家光を始め、さまざまな人がお見舞いに訪れるも、美意識は高く皆に正装で対応したとか。さすが「伊達者、政宗!」

最後まで愛妻の前ではかっこよくいたかったらしく、愛姫が会いに来ても面会を断っていたようです。夫婦仲は良好で愛姫は、政宗の死後出家し陽徳院と名乗り、86歳まで生きています。16年後には、政宗のかっこよい戦姿を思い浮かべたのか、甲冑像を作らせました。

ちょっと雑学

先ほどから触れていますように、政宗は多趣味でした。和歌や漢詩、香道も好きだったようです。能楽では役者を自分で育成し、他の大名に舞台を見せていたとか。茶道では、千利休のファンで、利休殿から茶を習いたいと、秀吉にせがんだこともあったようです。

戦国武将は手紙を右筆(手紙を書く専門の家来)が書いていたようですが、政宗は自分専用の書道道具を持つほど手紙好きでした。現在も1000通近くの手紙が残っています。印章も複雑な彫のものを使っており、現在残っているのは4つです。

また、健康オタクで、手をよく洗い、冬でも薄着で通しています。また、医学も学んだらしく、自分はもちろん、家臣や女中などが体調を崩せば、診察をして薬を処方していたようです。仙台名物「ずんだ餅」は、政宗が作ったとの説があるほど料理好きで、病人が出るとお粥まで作っていたとか。

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