室町時代戦国時代日本の歴史

5分でわかる「伊達政宗」-独眼竜の由来は?刀は?その生涯をわかりやすく解説

2-1.家臣からも一目置かれる存在に

元服はとても早い11歳です。名前を「伊達藤次郎政宗(だてとうじろうまさむね)」と改めています。当時の平均は15歳でしたが、顔のコンプレックスを払拭し、家臣との信頼関係を築けた我が子に、早く一人前になってほしいとの、父輝宗の愛情だったようです。

13歳で愛姫(めごひめ)と結婚しました。輝宗がことを急いだ理由は、家臣たちに後継ぎは政宗だと、示すための基礎固めだったのです。愛姫は4人の子供を生み、忠宗が仙台藩2代目藩主になります。正室の愛姫の他に、側室が7人いました。長男は側室が産んだ秀宗で、初代宇和島藩(現:愛媛県宇和島市)の藩主となっています。

2-2.政宗の初陣

15歳で初陣を飾ります。相手は小高城(現:福島県)一帯を支配する相馬氏で、奪われていた小斎城、金山城、丸森城を取り戻すために、何回か行われた戦いの中のひとつでした。黒漆五枚胴具足を身につけ、小十郎や伊達家最強の武将と称された親類の伊達成実を従え勇敢に戦ったのです。

周辺大名たちの評判になるほど、見事な勝ちっぷりでした。「片目しかなく、世間が半分しか見えてない当主では、伊達家は終わりだ!」と漏らしていた家臣たちの信頼も得て、一目置かれる武将となったようです。

ちょっと雑学

「伊達政宗」という名前は、藤次郎だけではありません。9代当主の「大膳大夫(だいぜんだいぶ)政宗」という、かつて「伊達政宗の乱」という2つの戦いで伊達家の名を近隣諸国に轟かせた功績を持つ人物がいました。その名を取って、梵天丸に「政宗」を名乗らせたのです。9代政宗は、「伊達家中興の祖」と称えられています。伊達家の勢力を広げた功労者の名前をつけたということは、輝宗の期待の大きさがわかりますね!

2-3.当主となる政宗

天正13(1585)年18歳の時に、輝宗が41歳で隠居し、政宗が17代当主となります。これは、初陣以降の政宗の働きを認めてのことですが、奥羽では親族が敵味方になり小さな領地を取り合う状態で、自身も親子で争っており、それを避け伊達家を盤石にしたかったからでした。しかし、若い当主ではと、伊達に従っていた力ある者は離れていったといわれています。

ちょうど織田信長が死に、羽柴秀吉が天下取りに躍起になっていたのです。政宗と対立関係にあったのは、母の兄最上義光や因縁のライバル相馬氏を始め、黒川(現:福島県)城主蘆名義広と常陸(現:茨城県)の大名佐竹義重でした。

2-4.父との別れ

憎き敵「畠山義継(はたやまよしつぐ)」に、人質とされた父もろとも射殺するという前代未聞の経験をするのです。小浜城主の大内定綱が政宗の命に叛き、蘆名や畠山、二階堂と手を組み政宗に牙をむきます。激怒した政宗は、大内氏の小手森城を攻め、自分を侮った見せしめに「撫で切り(皆殺し)」を行いました。大内氏の味方だった義継は伊達氏に降伏し、やっと政宗の許しを得たことで、挨拶に宮森城へやってきた時のこと。帰り際に気を許した輝宗を、義継が拉致したのです。

領地の没収や人質など、厳しすぎる条件への反抗心からの行動でした。事件を知った鷹狩り中の政宗は、すぐに駆けつけます。二本松城の手前阿武隈川の岸辺で追いついた時、義継は輝宗の胸元に短刀を突き付けていたのです。「わしごと討ち、伊達家を守れ!」と叫びました。そして、父もろとも義継を撃ったのです。政宗は、「父殺しとなった!」と悲しみ、遺体に駆け寄り泣き崩れたとか。

2-5.父のとむらい合戦

天正13(1585)年11月に、「人取橋の戦い」が勃発します。7日後に行われた父の葬儀を行い、初七日が明けると父のとむらい合戦に、畠山氏の二条城を攻めるのです。佐竹氏、蘆名氏、岩城氏などが、畠山氏を助けるため南奥州連合軍を結成し3万の軍勢で政宗を攻めますが、7000の兵しかいない政宗は、苦戦を強いられ逃げました。

翌日、佐竹氏の領地が狙われているとの情報が入り、佐竹軍が突如退却し、絶体絶命の危機を免れ勝利します。しかし、この戦で鬼庭左月斎など多くの優れた家臣を失いました。その後、20歳の時に畠山を滅ぼします。

 

2-6.奥州の覇者になる

23歳で宿敵会津の蘆名氏を「摺上原の戦い」で滅ぼし、黒川城を手に入れます。戦いが始まった午前6時ごろの磐梯山麓摺上原は、追い風が吹いており、それを味方につけた蘆名軍が有利でした。風が強かったため、政宗軍は、鉄砲を撃つこともできなかったようです。

午後になると風向きが変り、政宗側に追い風が吹き反撃に出ます。蘆名軍の3陣は恐れ戦わず戦場から逃げ、第4陣も離脱しました。義広は戦場から逃げたものの、総崩れになった蘆名軍の多くの兵は、政宗勢の猛攻撃に逃げ遅れ、黒川城へ戻る途中の日橋川に架かる橋を焼き落とされおぼれ死んだとか。

敗走した義広は、実父のいる常陸に逃げ、佐竹氏を頼っています。この時点で蘆名氏は滅亡。当主になってたった5年の天正17(1589)年6月11日に、黒川城に入り、奥州の覇者になるのです。この時、関東を手に入れ、天下取りに目覚めます。

3.「伊達男」って政宗が元って本当?

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24歳の時に、秀吉から小田原城の戦いに参陣するよう催促され重い腰をあげます。その時母に祝の夕食をと招かれていくも、母が溺愛する弟の小次郎を当主にと、政宗の汁に毒を入れたのです。この一件を小次郎に背負わせ、弟を自らの手で殺しました。この時、強い当主との印象をつけた政宗は、家来たちとの結束力を強固なものにしましたが、時代の流れで秀吉の勢力下に置かれます

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