日本の歴史江戸時代

徳川家康の家来になったイギリス人「三浦按針」ってどんな人?わかりやすく解説

家康の元で実力を発揮するウィリアム・アダムズ

ウィリアム・アダムズとヤン・ヨーステンは、他の乗組員のように帰国を願いますが、反対に邸を与えられて給金をもらうことになりました。そして外国使節との交渉の通訳と助言という外交顧問として仕えることになりますよ。商船に乗っていた経験が生きたのですね。

ウィリアム・アダムズは航海術だけではなく、西洋文明の最先端技術や、航海士なので天文学にも精通していたために、幾何学・数学・地理学・航海術・砲術などを、徳川家康はじめとした側近達に教えるということもしていくことになったのですよ。慶長7年(1602)頃には御用商人の娘といわれる「おゆき(マリア)」と結婚しました。

そうこうしている間に、乗ってきたリーフデ号が江戸湾で沈没するということが起きました。徳川家康はウィリアム・アダムズが船大工をしていたということを知り、西洋式の帆船を作るように要請します。造船の仕事はかなり昔のことだったので断りましたが、あまりの熱意にとうとう伊東に日本で初めての造船のドッグを作り、慶長9年(1604)に80トンの帆船を建造帆船を完成させたのですよ。大喜びをした徳川家康は、次にもっと大きな船を造れと指示したために、慶長12年(1607)には120トンの船を完成させたのです。

三浦按針として生き始める

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船が完成すると徳川家康は、ウィリアム・アダムズを(日本に留めさせるためにも)旗本に取り立てます。そこで「三浦按針」という日本名を与えられました。帯刀も許された「青い目のサムライ」という日本人の誕生ですね。名前の由来は領地として与えられた「相模国逸見(現・神奈川県横須賀市)」の三浦半島がある「三浦郡」からと、水先案内人(航海士)という意味の「按針」からだといわれてますよ。

ちなみにヤン・ヨーステンは、江戸城の内堀にある現在の八重洲あたりに邸をもらい、日本人の女性と結婚しました。日本名は名前がなまった「耶楊子(やようす)」と呼ばれ、住んでいた所が八重洲の名前の由来となったといわれてますよ。彼は東南アジア方面に朱印をもらって「朱印貿易」をしていましたが、日本に帰る途中に船が難破して亡くなってしまったのです。

日本人として生きる三浦按針

慶長18年(1613)日本に交易を求めるために、故郷のイギリス東インド会社のクローブ号がやってきました三浦按針としてクローブ号の乗船員一行に付き添って徳川家康との謁見を実現させます。翌年にはイギリスからも徳川家康からもイギリスに帰る許可をもらったのですよ。しかし何事も日本式に行う三浦按針にクローブ号の司令官「ジョン・セーリス」は気に入らなかったようで、三浦按針も「生意気な若造だ」という感じで気に入らなかったせいで帰国することをやめてしまいましたよ。

その後の三浦按針は、名前と旗本の職を息子のジョゼフに譲ります。それまでオランダ商館の手伝いをやめて、母国のイギリス商館を手伝ったといいますね。給料は下がったようですが、やはり母国が大事だったのかもしれませんね。

オランダ商館1609年(慶長14年(1609)設立)は平戸(現・長崎県平戸市)にありましたが、三浦按針は自分の領地である三浦にイギリス商館を作るつもりだったのがジョン・セーリスに反対されて、慶長18年(1613)に平戸に置くことになります。両方とも設立には三浦按針が関わっていますが、イギリス商館は結局のところ競争に負けて1623年元和9年(1623)に閉館してしまったのですね。

家康の死後の三浦按針

オランダとイギリスは商館が平戸でしたが、スペインは浦賀に商館を作っていました。三浦按針はスペインと交渉して浦賀に「浦賀フランシスコ修道院」を建立して、キリスト教布教の拠点となりました。しかし、これが仇となることになったのですよ。

徳川家康が亡くなると、江戸幕府は外国との交渉・交易を平戸のみとする「鎖国政策」と変わっていきます。そして「キリスト教禁止令」という流れとなっていくのですね。二代将軍・徳川秀忠と徳川家光や幕臣達からは警戒されて、仕事は天文官だけとなっていきました。

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紫蘭