徳川家康との出会い
黒島に漂着したものの自力で歩ける者はウィリアム・アダムズを含めて6人というありさまで、とても上陸できない状態だった乗組員たちは、臼杵城主「太田一吉」の出してくれた舟でようやく日本の土を踏みました。大田一吉はさっそく長崎奉行「寺沢広高」に通報。ウィリアム・アダムズたちは拘束されます。船内にある大砲・火縄銃・弾薬といった武器は没収。そして処遇を大坂城にいる関白「豊臣秀頼」に指示を仰ぐことになりました。しかしまだ子供なので指示をするのは無理ということで、五大老筆頭だった徳川家康のところ(大阪)へ連れて行くことになるのですね。
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当時の日本のキリスト教事情
当時の日本には、フランシスコ・ザビエル以来の「イエズス会」の宣教師たちが猛威を振るっていました。イエズス会の宣教師達は「あいつらは海賊だから、即刻死刑にした方がいい」と騒ぎ立てます。同じ西洋人なのに見るからに漂着民なのに、なぜそこまで言及するのかというと、そこには海外の事情がありました。
当時の西洋諸国は「植民地政策」をとっています。まず宣教師達を送り込み安心させて、布教をすることによって洗脳してから、軍隊を送り込んで占拠して植民地にするというやりかたですね。しかし同じキリスト教なのですが国によっての事情で変わってくるのですよ。
イエズス会はスペイン・ポルトガルの「カトリック」で構成されていて、イギリスとオランダは「プロテスタント」という(詳しくいうと長くなりますので)わかりやすくいえば宗派が違うということでしょうか。カトリックの僧侶は神父といい結婚できませんが、プロテスタントの僧侶は牧師で結婚できるというようにシステムから全く違いますよ。おまけに船団を拿捕したのもスペインとポルトガル。植民地政策でも敵対していたのですね。特にスペインはイギリスとの戦争で負けて無敵艦隊と言われなくなりましたし。
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家康に気に入られる
徳川家康と謁見するには、重体の船長ヤコブ・クワッケルナックは動かせないので、アダムスと「ヤン・ヨーステン」と「メルキオール・ファン・サントフォールト」ら動ける者たちを大坂に護送させることになりました。船も一緒に大阪へ出航します。
慶長5年3月30日、徳川家康はイエズス会に言われてウィリアム・アダムズたちを海賊だと思い詰問しますが、航海の事情やキリスト教同士の問題を必死で説明するウィリアム・アダムズとヤン・ヨーステンに好感を持ちました。そしてイエズス会の死刑を要求する執拗な抗議を無視して、投獄という形をとりながら何度か取調べをしたあと釈放をしてくれましたよ。そして2人が気に入ったので江戸まで連れて行くことになりました。
ちなみに船の大砲は関ヶ原の戦いの時に使われたそうですよ。飛距離とかを考えると、もしかしたら小早川秀秋を脅した大砲だったかもしれませんね。