日本の歴史江戸時代

徳川家康の家来になったイギリス人「三浦按針」ってどんな人?わかりやすく解説

日本で骨を埋めて

そしてイギリス商館のある平戸で、元和6年(1620)5月16日、55歳で亡くなったのです。墓地はイギリス商館の近くにあった外人墓地に葬られましたが、キリスト教弾圧のあおりで商館ともども墓地も破壊されてしまいました。ひそかに子孫の三浦家が平戸市崎方に「按針墓」を作り守ってきましたが、1931年に発掘したところ三浦按針らしき骨の一部と遺品がでてきたそうですよ。現在は「崎方公園」にお墓が建てられていて、イギリスでの奥さんのお墓の小石も入れての夫婦墓があります。

領地だった横須賀市の「塚山公園」には、按針とおゆき夫妻の慰霊のために2基の供養塔があって「安針塚(按針塚)」「三浦按針墓」と呼ばれているそうですね。発掘調査をするまではお墓だといわれていたそうですよ。二代目・三浦按針であるジョセフの消息は鎖国になった時点で消えてしまったそうです。

造船ドッグのあった伊東市では、毎年夏には「按針祭」が開催されて「按針祭海の花火大会」があるそうですよ。有名な花火大会は三浦按針の慰霊のための花火だったんですね。

青い目のサムライの残したもの

image by PIXTA / 55115901

イギリス人でありながら、偶然にも日本に漂着して、これまた偶然にも天下人となる寸前の徳川家康に気に入られて武士になったという波瀾万丈な一生を生き抜いたウィリアム・アダムズこと三浦按針。この人がいたからこそ徳川家康はある意味天下が取れたのではないか?と思ってしまいますよね。領地だった横須賀市と、造船ドッグがあった伊東市は、生まれ故郷のイギリスのジリンガム(現・自治体合併によってメドウェイ)と姉妹都市関係をとっているそうですよ。なんだか嬉しいですね。

1 2 3 4
Share:
紫蘭