室町時代戦国時代日本の歴史

祖父や父ほどの才能に恵まれなかった「斎藤龍興」の悲哀の生涯をわかりやすく解説

信長への抵抗を続け、武将として目覚めた人生の後半

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稲葉山城を追われて国を失った龍興は、すでに戦国大名としての力を失っていました。しかし、彼はここに至ってようやく武将としての心に目覚め、織田信長への抵抗を執拗に続けていきます。越前の朝倉氏に身を寄せた彼ですが、信長の攻撃が及ぶと、最後まで奮闘を続けました。短い生涯でしたが、彼は信長を相手にした戦いの中で最も輝いたのです。

長島一向一揆に参加し、信長に反抗する

龍興が落ち延びた伊勢・長島は、信長に抵抗する一向一揆のメッカでした。龍興が身を隠すにはぴったりの場所だったのです。そこで龍興は反・信長の急先鋒となりました。

意外にも、城を失って力をなくしたこの時になって、龍興は戦国武将らしくなっていったのです。

やがて、京都付近で力を持った三好三人衆とつながると、織田信長に擁されて室町幕府第15代将軍となった足利義昭(あしかがよしあき)の本拠地・本圀寺(ほんこくじ)を攻め、その後は一向一揆の元締めである本願寺勢力とも結び付き、野田城・福島城の戦いで信長と戦い、越前(福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ)の客将となりました。

信長に最後の抵抗!乱戦の中での討死

しかし、織田信長の勢いは、龍興の抵抗で止められるものではありませんでした。信長は浅井氏・朝倉氏を滅ぼしにかかり、天正元(1573)年、ついに朝倉義景は追いつめられるのです。

朝倉軍に参加していた龍興は、撤退中に刀根坂(とねざか)という場所で織田軍に追撃を受けました。織田軍の攻撃はすさまじく、龍興は乱戦に巻き込まれます。

かつての軟弱さが嘘のように龍興は奮闘しますが、もはや瓦解寸前の朝倉軍の中にあって、戦況を変えられるものではありませんでした。力及ばず、龍興は討死します。26歳でした。

彼を討ち取ったのは、かつての家臣で西美濃三人衆の氏家直元の息子・直昌(なおまさ)だったそうです。

城を追われて6年、この間が彼を武将としての気概に目覚めさせ、最も生き生きとした時間だったと思います。

実は鋭い視点を持っていた龍興

少年時代は側近の言葉に惑わされていた龍興ですが、キリスト教に興味を持つと、鋭い観察力を発揮したというエピソードが伝わっています。

宣教師ルイス・フロイスにキリスト教について講義を受けた龍興は、それをこまごまと書きとめたそうです。次に会った際には、彼は聞いたことすべてを一字一句間違うことなく復唱し、皆を驚かせたとか。

また、別の宣教師に対し、「人間が神によって祝福され、万物の霊長だと保障されているというが、それならなぜ人の世にこれほど多くの不幸があり、戦が終わらないのか?かくも荒れた世を、善良な人々が懸命に生きているのに、現世で何の報いも受けられずにいるのはなぜなのか?」と質問したと言われています。

こうしたエピソードから察するに、実は頭が良く鋭い人物だったと考えられますよね。ルイス・フロイスも、「とても有能、そして思慮深い」と龍興について書き残しています。

こんな明晰な頭脳があるのですから、もっと早くに目覚めていれば…と思いますよね。

戦国武将としての目覚めが遅すぎた

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父・義龍があまりに早く亡くなってしまったことが、龍興の武将としての目覚めを遅らせてしまいました。それさえなければ、有能な父の姿を見ながら成長し、信長を脅かす存在にさえなれたのかもしれません。戦国時代の厳しさを思い知らされた、龍興の生涯でした。

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