お気に入りの言う事ばかりを聞いていた龍興
どたばたと家督を継ぐことになった龍興は、おそらく戦でどのように戦うのか、家臣をどのように使っていけばいいのか、あまりよくわからないままだったのでしょう。ふだん、自分の側にいる者ばかりを重用し、特に家臣たちの中で悪評の高い斎藤飛騨守(さいとうひだのかみ)の言う事ばかり聞いていました。おそらく、飛騨守は龍興にとって耳の痛いことは言わず、甘言ばかりを吹き込んでいたのでしょう。
それだけではなく、龍興はまだ若いのに酒色におぼれていたと言われています。飛騨守のような者がそれを止めるわけもなく、注意する家臣の言うことは聞かず、まるで主君として機能していませんでした。
父・義龍を早くに失った弊害が、すでに表れていたのでした。
続々と離れていく家臣たち、そして城を追われる
お気に入りの家臣たちばかりをそばに置き、重臣たちの諫言を聞かなかった龍興に対し、竹中半兵衛は策略によって稲葉山城を乗っ取るという荒療治に出ます。下剋上の意志のない半兵衛はすぐに龍興に城を返しますが、龍興の君主としての能力の低さが露呈したこの事件により、美濃国内の豪族の心は急速に離れていきました。そして、再び攻め込んで来た織田信長の前に敗れた龍興は、城を追われてしまうのです。
重臣たちの諫言を聞かず、逆に遠ざける
織田信長を退けるという功績があった半兵衛ですが、龍興からはろくな労いもなく、重臣の西美濃三人衆(稲葉良通/いなばよしみち・安藤守就/あんどうもりなり・氏家直元/うじいえなおもと)らと同様、遠ざけられていました。龍興は三人衆の諫言を聞かず、龍興の側近たちは彼らを侮るようになっていたのです。
特に、半兵衛に対しては、斎藤飛騨守はなんとやぐらの上から小便を引っかけてバカにするほどでした。
このままでは龍興は飛騨守らに惑わされたままで、お家を揺るがす事態になりかねない…そう判断した半兵衛は、舅の安藤守就と相談し、龍興にきついお灸を据えることにしたのです。
竹中半兵衛に城を乗っ取られる
永禄7(1564)年、半兵衛は、城内につとめていた弟の看病と言う名目で、武器を荷物にまぎれこませてこっそりと運び込みました。そして城内で武装蜂起し、わずかな人数で稲葉山城を乗っ取ってしまったのです。
龍興は慌てふためいて逃亡し、飛騨守は安藤守就に討ち取られたと伝わっています。
ただ、半兵衛は自分が龍興に取って代わるつもりはありませんでした。そのため、すぐに城を龍興に返したのです。これなら、主は目を覚まして奸臣たちを排除してくれるだろうと。
人心が離れ、織田信長に城を追われる
こうして龍興は稲葉山城に復帰することができましたが、家臣にやすやすと城を乗っ取られたという事実はあっという間に広まり、影響力はみるみるうちに低下してしまいました。美濃国内の豪族たちは龍興を見限り、織田信長に続々と寝返っていったのです。ついには、西美濃三人衆までもが信長方へと鞍替えしてしまったのでした。
そして、永禄10(1567)年、稲葉山城の戦いで信長に敗れた龍興は、城を追われ、伊勢の長島(三重県桑名市)へと落ち延びて行ったのです。まだこの時20歳。あまりに激動の時間が過ぎていきました。