徴兵軍隊が士族たちに勝利した西南戦争
1874年から1876年にかけて、西南諸藩では士族たちの反乱が相次ぎました。江藤新平が起こした佐賀の乱や旧秋月藩士が起こした秋月の乱、熊本県士族が起こした敬神党の乱、前参議の前原一誠が起こした萩の乱などは、全て新政府軍によって鎮圧されます。
1877年、維新の元勲で維新三傑に数えられる西郷隆盛を擁する旧薩摩藩士族が挙兵する西南戦争が勃発。熊本城にある熊本鎮台に迫りました。山県は士気が高い薩摩軍に対抗するため物量作戦を展開。電信など最新技術も導入して徐々に薩摩軍を南へと押し込みます。
同時に、海路鹿児島を急襲して鹿児島城下を占領するなど、全体の戦局を政府軍優位に持っていきました。北進を阻止された薩摩軍は各所で政府軍に敗北。鹿児島市内の城山に立てこもります。1877年9月24日、山県は城山総攻撃を命じ、薩摩軍をせん滅しました。
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竹橋騒動と軍人勅諭
西南戦争終結後、論功行賞に不満を持った一部の近衛兵が武装反乱を起こしました。この事件を竹橋騒動といいます。反乱は直ちに鎮圧されましたが、軍の規律を維持するため、何らかの規範を作る必要性がありました。
竹橋騒動鎮圧後、山県は参謀総長となり参謀本部を設置するなど軍機構を整備しようとします。それから、1882年に軍人勅諭の発布へと動きました。軍人勅諭の原案は西周が起草。福地源一郎や井上毅、山県有朋が加筆修正し、明治天皇の名で軍人たちに下賜されます。
勅諭では、軍人が守るべき徳目は忠節・礼儀・武勇・信義・質素の5つであるとしました。特に、軍人が政治にかかわることがないよう、強く戒めます。その上で、軍人たちに天皇に絶対服従せよと強調しました。
政治家、山県有朋
軍官僚として国軍の整備に手腕を振るう一方、山県は長州閥の一員として政治にも深く関与します。山県は1889年に第一次山県内閣、1898年に第二次山県内閣を組閣し総理大臣として政府を率いました。また、山県は政界最長老である元老として首相の選任などに携わり、明治時代から大正時代の政局に対して大きな影響力を持ちました。
第一次山県内閣
黒田清隆が大隈重信外相の襲撃事件によって総辞職したのち、1889年12月に初めて内閣総理大臣となりました。首相就任後、山県は地方自治制度を確立させるため府県制・郡制を公布。中央政府の統制が強い地方自治制度をつくりあげました。
府県会議員は選挙でえらばれますが、都道府県知事や市長は中央政府が任命します。1890年7月、日本で初めてとなる衆議院議員総選挙が実施されました。この時、議会の過半数を占めたのは立憲自由党や立憲改進党などの民党です。
1890年11月、第一回帝国議会が開かれました。山県は帝国議会での施政方針演説で、日本本土の国境線(主権線)を守るためには、朝鮮半島など周辺部の利益線を確保しなければならないと主張。軍事予算の拡大が必要だと訴えました。これに対し、立憲自由党や立憲改進党は地租軽減などを求めて激しく反発します。
山県は自由党の一部を買収することで山県は第一次帝国議会を乗り切りました。初めての議会を乗り切った山県は1891年5月に首相の座を松方正義に譲ります。
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政界での山県の勢力拡大と第二次山県内閣
大日本帝国憲法制定後、伊藤博文は自由党と連携し新政党を作ろうと動きます。薩摩出身の松方正義は伊藤に対抗するため、もう一つの民党である立憲改進党との連携をはかりました。
こうした藩閥政治家と政党の接近を警戒したのが藩閥系の官僚たちです。彼らは政党と距離を置く山県の周辺に集まりました。山県有朋周辺に集まった官僚たちは山縣閥とよばれ徐々に政界で影響力を増します。
1898年、山県は山縣閥の勢力を背景に再び首相となりました。この時、山県は文官任用令を改正し、高級官僚になるためには文官高等試験に合格しなければならないと定めます。
これにより、政党員が無試験で高級官僚になるのを阻みました。また、軍部大臣現役武官制を制定し、現役の軍人以外は軍部大臣(陸軍大臣と海軍大臣)に就任できない仕組みを作ります。山県としては軍を政党から切り離したいと考えたからでしょう。