安土桃山時代日本の歴史

5分でわかる安土桃山時代!主な出来事や主要人物、どんな時代だったかわかりやすく解説

2-5.異教や異文化すら受け入れる社会の寛容性

安土桃山時代における仕組みを表す特徴について、「社会の寛容性」を忘れてはならないでしょう。

ここでいう寛容性とは、何でもかんでも受け入れるということではなく、「自分にとって最も良いものを受け入れる」という現実を直視できるということ。当時の人々はいわゆるリアリストが多かったのではないか?と考察します。

日本人から見た異教といえば、やはりキリスト教は外せません。多くの庶民の間でキリシタンが爆発的に増えたのも、この寛容性のなせる業だったのではないでしょうか。

日本人。特に庶民の間における宗教観とは、現世では苦しい生活を強いられていても、仏様さえ一心に拝んでいれば必ず救済されるはずだという「救いの宗教」でした。そこには難しい経典や教えなど関係ありません。

2-6.当時の人々に受け入れられた宗教観

この頃の仏教は非常にわかりやすいものがありますえん。「念仏さえ唱えれば極楽往生できる」と広めることで、急速に信者を増やした一向宗が大勢力になったわけであり、キリスト教が広まった理由も同じことがいえると思います。

逆に一向宗がほとんど広まらなかった九州地方では、「イエスやデウスやマリアに懸命に祈れば救われる!」という単純明快な理屈が、あっさりと人々に受け入れられました。

戦乱や疫病による苦しみから何かにすがりたいという思いが強ければ強いほど、それが異国の宗教であっても全く問題ではなかったのです。

それは異文化に対しても同じだったでしょう。物珍しいものが大好きで、身分制度や伝統に捉われない人々は、南蛮風の奇異な風俗に対しても拒否反応を示しませんでした。特にキリスト教の布教が許された地域では特に顕著だったようですね。

3.安土桃山時代はまさに高度経済成長期!

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日本の歴史の中で、高度経済成長期といわれる時代が3度ありました。最も新しいものは昭和の高度経済成長期、その前が大正~昭和初期にかけての重工業勃興期、そして最も古いものが安土桃山時代だったのです。「戦国の高度経済成長」とはどのようなものだったのか?解説していきましょう。

3-1.海外から伝わった陶磁器や織物

安土桃山時代は、まさしく産業革命の時代だといっても過言ではありません。海外から持ち込まれた技術や技法によって国内産業が飛躍的な発展を遂げ、海外貿易の需要を受けて莫大な富を生み出していたのです。

まず美濃や瀬戸で作られていた陶磁器は、安土桃山時代になると茶の湯と結びついて日本独特の特色を持つようになり、16世紀末には朝鮮半島から連れてこられた職人たちが新しい技術をもたらし、現在の日本製陶磁器の源流を作り上げました。

また絹織物も中国大陸から伝わった撚糸の技術が伝わり、西陣織や京ちりめん、丹後ちりめんなどが登場しました。

3-2.戦争の概念を変えた「鉄砲」の普及

しかし最も目覚ましかったのは、戦乱が続く世だったからこそ発展した鉄工業ではなかったでしょうか。刀剣をはじめとした鉄製武具などは大量に製造されていましたから、技術革新の素地はすでにあったわけです。

そして1543年に種子島に鉄砲が持ち込まれます。堺や根来寺に伝えられた鉄砲製造技術は瞬く間に広がり、大量の鉄砲生産すら可能にしました。最盛期には日本に30万挺以上もの鉄砲が存在していたそうで、その生産能力の高さには驚くばかりですね。

また鉄砲の普及に伴って、銃弾を防ぐべき鎧などの防具も全て鉄製となりました。そういった意味では、まさに日本は世界でも有数の軍事大国であり、経済成長の後押しをする基盤でもありました。

3-3.安土桃山時代はシルバーラッシュ!

この時代は貨幣経済が急速に進んだことでも知られています。その理由は全国の金山や銀山がフル稼働していたこと。かつて戦国大名たちは軍資金確保のため鉱山開発に勤しんでおり、富国強兵を目指していました。

やがて安土桃山時代になると豊臣政権がそれらの鉱山を直轄領とし、富の源泉としたのです。

石見銀山や生野銀山では豊富に銀が採掘され、灰吹き法の確立とともに効率良く銀を手に入れていました。そうして大量の銀を海外へ輸出することで大きな利益を得ることもできましたし、貨幣に鋳造して市場に流通させました。

3-4.貨幣経済の発達が経済成長を後押し

物々交換でやり取りするよりも、貨幣を仲介することでより大きな商売ができますし回転も速くなります。貨幣が全国へ広まるにつれて、日本経済も大きく太く発展することになりました。中には金銭で年貢を納めるという地域もあったほどです。

またこれまで国内で流通していたのは、中国から輸入されてきた永楽通宝をはじめとする銭貨でした。ところが信用不安が大きく、あまりあてにならないものでした。そこで国内で貨幣を鋳造し、流通させることで経済の安定に繋げたのです。

しかし、のちの徳川幕府はこれと真逆のことをやって大失敗していますね。ひたすらコメの年貢収入に頼り切った米本位制だったため、飢饉や不作による米価変動についていけなくなり、幕府や藩の財政が破綻することとなったのです。

3-5.盛んな海外貿易で巨利を得る日本経済

南蛮貿易といえば、スペインやポルトガルなどが直接的に日本と貿易を行っていたと見られがちですが、実は明(中国)を介した三角貿易だったのです。

日明貿易じたい公式には途絶えていましたが、1570年頃にポルトガル船がマカオ~長崎間で定期的に往復するようになり、日本や中国は互いの輸出入で莫大な富を得て、ポルトガルは仲介手数料で儲けるといった三角関係が成り立っていました。

やがてポルトガルはフィリピンのマニラを整備し、日本と中国を結ぶハブ港としたのです。のちにポルトガルがスペインに吸収されたことにより、スペインが南蛮貿易を一手に担いました。

3-6.貿易の玄関口となった港

また日本側では輸出や輸入を取り仕切る港も富の源泉となりました。敦賀や堺・博多津などの港が貿易の玄関口となり、隆盛を極めたといいます。特に博多は秀吉が直轄地にするほど重要な港でした。

特に日本にとって銀は主要な輸出品だったため、これらの港から銀が大量に海外へ流れていくことになりました。

ちなみに中国が得ていた銀は莫大なものでしたが、日本が鎖国時代に入るやいなや銀の流入がストップし、たちまち猛烈なデフレに見舞われました。この経済混乱のおかげで明王朝は没落し、清王朝に取って代わられる一因にもなったとされています。

3-7.南蛮貿易に目がくらむ大名たち

この時代は多くのキリシタン大名が誕生したことでも知られています。高山右近のように追放されてもキリスト教を捨てなかった純粋な信仰心を持った者もいましたが、多くのキリシタン大名は南蛮貿易の魅力に目がくらんでいたといえるでしょう。

戦術に大きな変化をもたらした鉄砲は、確かに画期的な兵器でしたが、肝心の火薬の原料になる硝石や鉛は日本で産出されませんでした。そのため、多くの大名たちが硝石を欲しがったはずです。

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明石則実