安土桃山時代日本の歴史

5分でわかる安土桃山時代!主な出来事や主要人物、どんな時代だったかわかりやすく解説

3-8.キリスト教が積極的に受け入れられる

ところが東南アジアや中国経由でもたらされるそれらの戦略物資は、実質的に南蛮貿易しか輸入ルートはなく、そのためキリスト教布教の見返りとして優先的に硝石を入手しようとする大名が多くいたのでした。

宣教師の歓心を得るために、土地を寄進したり、入信して洗礼を受けることも有効な手段の一つでした。

それでも安土桃山時代の後期ともなれば、キリスト教の教義に関心を示し、自主的に洗礼を受ける大名が数多くいたことも事実です。黒田如水、小西行長、蒲生氏郷などが挙げられますね。

4.ありあまる高度経済成長のパワーは海外へ飛び火

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史上稀にみる高度経済成長によって、絢爛たる文化を生み出し豊かになった日本。しかしそのパワーは国内だけには留まりませんでした。

4-1.海外派兵を目論む秀吉

日本国内を統一し、刀狩りや太閤検地によって統治基盤を盤石にした豊臣政権ですが、国内の戦いや争いがなくなったことで本格的に海外へ目腺が向くことになりました。

明やインドを征服したいという秀吉の野望を具現化するべく文禄・慶長の役が起こったのです。

秀吉の野望説が通説ですが、生まれたばかりの鶴松の地位を安泰にするためだとか、全国の大名たちの恩賞の土地を確保するためともいわれていますが、いずれにせよ攻められた朝鮮は気の毒としか言いようがありません。

4-2.文禄・慶長の役

明国征服の野望に燃えますが、明国までの道案内を朝鮮側に断られた秀吉は激怒。1592年、15万の大軍で海を渡らせて、朝鮮半島へ出兵したのです。

豊富な鉄砲を揃えて優勢のまま軍を進めた日本軍でしたが、やがて明の援軍とぶつかるに及び、戦況は停滞してしまいました。文禄・慶長と二度にわたる外征のおかげで戦力は疲弊し、国内経済も停滞し、せっかく安土桃山期の高度経済成長で成し遂げた好景気も、すべて吐き出す羽目になってしまいました。

もし秀吉が朝鮮出兵という愚行をしなければ、日本はもっと発展していたかも知れませんね。

4-3.海外へ雄飛する日本人たち

豊臣政権によって国内での戦いが終わり、まさに戦国時代の終焉を迎えました。しかし、そのことによって思わぬ余剰人員を生み出す結果となったのでした。

多くは足軽として戦っていた農家の次男坊や三男坊たち。彼らは大名の正規兵ではありません。そのため彼らは日本にいたままでは食べることにも事欠くこともあり、多くの者が新天地を求めて海外へ雄飛していったのです。

山田長政など現地国家の高官となった人物もいますし、傭兵として外国のために戦ったのでした。

4-4.戦国日本が海外に残した足跡

東南アジア諸国へ移り住んで、彼らは王侯貴族たちの傭兵となったり、用心棒として仕事を得ました。その中でもアユタヤにある日本人町が有名なのですが、ここには多い頃で2千人ほどの日本人が暮らしていたようですね。

また禁教令に伴い、海外へ追放されてマニラなどに移り住んだ者も多くいたそう。

伊達政宗がスペインへ派遣した慶長遣欧使節の中には、禁教令のために日本へは帰国せず、スペインで一生を終えた者もいたそうで、コリア・デル・リオという町には現在でもに日本姓を名乗る子孫が700人もいるそうです。

その逸話をテーマにした宝塚歌劇星組公演「イスパニアのサムライ」でもたいへん話題になりました。

江戸時代には引き継がれなかった高度経済成長

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安土桃山時代に高度経済成長を遂げた日本。しかし、残念ながら江戸時代に引き継がれることはありませんでした。禁教令に加えて鎖国政策を取ったことも大きな理由の一つですが、国の安定を図るために、社会制度そのものが固定化されてしまったからです。それは厳しい身分制度もそうですし、武家諸法度や禁中並公家諸法度などを制定することによって、民衆だけでなく全ての人間をがんじがらめにしたからですね。そこにはもはや人々の自由闊達な気風などはありませんでした。やがて日本はガラパゴス化し、世界の趨勢から置いてけぼりになっていくのでした。

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明石則実