日本の歴史江戸時代

浄瑠璃に革新をもたらした脚本家「近松門左衛門」と作品を元予備校講師がわかりやすく解説

近松の誕生から京都時代

近松門左衛門は1653年、越前国福井藩士杉森信義の子として生まれました。近松の本名は杉森信盛。父の信義ははじめ福井藩に、その後は福井藩の分家の吉江藩に仕えます。1664年、信義は吉江藩を辞め浪人となりました。

浪人となった信義の一家は京都に移り住みます。のちに、近松が晩年に書いた文章によると、このころ、近松は高位の公家に仕えていました。公家の家に仕えるうちに、知識や教養などを身につけたと考えられます。

京都は三都の中で伝統芸能が良く残った町でした。特に公家衆は古くからの儀礼に詳しく、近松が作品を作るうえで大いに参考になったことでしょう。

近松の作品は武士や貴族を主人公にする時代物と庶民を主人公とする世話物に分けられます。かつて武士であり、京都の町で貴族文化に触れながらも町人として生きた近松にとって、彼の人生経験そのものが作品の元ネタとなりました。

革新的な作風で浄瑠璃を大きく変えた近松門左衛門と竹本義太夫

近松が脚本を書く浄瑠璃は近松・竹本義太夫コンビが活躍する以前と以後で大きく2つに分けられました。近松・竹本以前は古浄瑠璃といいます。

そもそも、江戸時代に流行した浄瑠璃とは三味線を伴奏楽器として太夫が歌い語るものでした。浄瑠璃に革新をもたらしたのが、近松が脚本を手掛けた「出世景清」です。

平家に仕え、平家滅亡後も生き残った藤原景清が源頼朝を打ち滅ぼそうとするお話ですが、物語の主人公である景清の心の葛藤や苦悩を描きました。

今までにない物語性をもった「出世景清」は従来の浄瑠璃を「古浄瑠璃」と呼ばせてしまうほどのインパクトを持ちます

近松が竹本義太夫とタッグを組んで世に送り出した浄瑠璃は新浄瑠璃とよばれました。古浄瑠璃との大きな違いは、歌うことよりも語ることを重視したこと。竹本義太夫の独特の語りは義太夫節とよばれます。

竹本義太夫と竹本座

1651年、竹本義太夫は現在の大阪府にあたる摂津国天王寺村の農家に生まれました。若いころ、当時人気だった浄瑠璃語りの井上播磨掾の弟子である清水理太夫に弟子入りし浄瑠璃語りの技法を会得します。

1677年、京都の四条河原に芝居小屋を建てて独立。1680年には竹本義太夫と名乗りました。1683年、義太夫は大坂道頓堀に竹本座を開きます。初演では近松が脚本を書いた「世継曽我」を上演し評判となりました。

義太夫の歌よりも語りを重視する節回しは義太夫節とよばれ、観衆から絶大な支持を受けます。義太夫は語りを極めることで人々を魅了し、聴衆を「話」の世界に引き込みました。

話の内容は近松が書いた渾身の台本だったので、聴衆はなおのこと物語の世界に引き込まれました。近松と義太夫の浄瑠璃は、まさに浄瑠璃の歴史を変えたのです。

近松門左衛門の代表作

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太夫が三味線を演奏しながら義太夫節で語り、人形遣いが登場人物の人形を操る人形浄瑠璃を文楽といいます。近松門左衛門と竹本義太夫のコンビは新浄瑠璃である文楽の分野でナンバーワンへと昇りつめました。近松が脚本を書いた文楽作品のうち、4つの作品を取り上げ解説します。

「曾根崎心中(そねざきしんじゅう)」

「曾根崎心中」は、1703年におきた堂島新地天満屋の遊女である「はつ」と醤油屋である平野屋の手代、徳兵衛が曾根崎村で心中を遂げた事件を題材とした物語です。

徳兵衛は叔父の店である平野屋で丁稚奉公していた人物。働きぶりの見事さを叔父に認められ、従妹と結婚し店を継ぐ話が出てきました。しかし、徳兵衛は天満屋の遊女はつと恋仲になっていたため叔父の提案を拒否。激怒した叔父に勘当されてしまいます。

しかも、叔父が相手先に贈った結納金を取り戻し、叔父に返す直前、親友に頼まれて3日間、そのお金を貸してしまいました。

3日後、約束通り徳兵衛が金を返してほしいと親友に言うと親友は金など借りていないと嘘をつきます。証文がなかったことから、徳兵衛は親友のウソを立証できず金をだまし取られ得てしまいました。

すべてを失った徳兵衛は、はつと一緒に曾根崎の森に向かい心中を果たします。

「冥土の飛脚(めいどのひきゃく)」

「冥途の飛脚」は1709年に起こった飛脚屋の横領事件を題材とした作品です。飛脚屋に養子に入った男が遊女を身請けするため店の金を横領した事件を元ネタにして書かれた作品でした。

飛脚屋とは江戸時代に大阪で始まった商売で遠隔地に手紙や荷物、金銭などを輸送する商売。大坂では18軒の飛脚屋が仲間を作り連帯して信用保証をしました。もし、客から預かった金品を横領した場合、その飛脚屋は家財没収の上、死罪という重い罰を与えられます。

つまり、飛脚屋の店の金に手を付けるということは命がけの犯罪ということでした。手を出してはいけないお金で遊女を身請けした男は大坂から大和国へ逃げますが発見されてしまいます。その結果、男と遊女は捕らえられ大坂に連行されました。

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