アメリカの歴史独立後

暗殺された第35代大統領「ジョン・F・ケネディ」必死に生きた強い男の生涯を解説

ちょっと雑学

ジャックは、戦争での経験で死に対する哲学を学び、「死を考えるよりは、生きている限りフルに生きたい」との言葉を残しています。大統領になってからの演説では暗殺者に狙われる危険な場面もたくさんありましたが、米国民と壁ができることを嫌い、セキュリティーを減らして国民の側で演説しています。「死は突然訪れるもの」と周囲に語っていた大統領は、民衆のど真ん中で暗殺される、自分の死に方を察していたのでしょうか?

3-2ケネディ大統領生還

島に漂着して4日目のこと。PT109の乗組員の家族に行方不明との連絡が入り、父も死んだと思ったようです。生と死の境を7日間も彷徨いましたが、無事助けられました。ジャックは背中に、一生苦しめられる傷を負いますが、部下を励まし生還させたヒーローとして語られています。

その後、PT59で、祖国のためにもうひと暴れしますが、マラリアにかかり保護されました。その後、先ほどお話した背骨の傷を治すためにボストンの大学病院に送られ大手術を受けます。生まれつきの背骨の病と戦争の古傷で、大統領になっても杖を手放せませんでした。

ちょっと雑学

日焼けした健康的なイメージは、アジソン病という副腎皮質の病気でステロイド剤を服用していたからで、他にも副作用が出ていました。性欲の高まりや過激な自信なども、薬のせいだとか。テレビでイケメンに魅せていた色黒も、薬の副作用とは…。しかも、大統領に就任した時の余命は、10年と予測されていたようです。

4.いよいよ政界デビュー

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手術も無事終わり家族のもとに帰った時、兄のジョーが戦死したと連絡が入りました。爆弾をたくさん積んだ新型機で英国海岸線上空を飛行中、原因不明の空中爆発をしたのです。遺品ひとつ見つからない悲しい最後でした。この悲劇により兄の遺志を受け継ぐ決意をしたジャックは、「ケネディ家の理想主義こそ、アメリカをはじめ世界が発展するための力になる」と固く信じ、ケネディ家の理想に向かって歩み始めます。

4-1政治家デビュー

兄のジョーが死んでからは、父からの期待を一身に背負うことになります。祖父のパトリックは生前、「アメリカに自由と平等の炎を再び燃え上がらせたい。」と理想を語っていました。父は祖父の夢でもあった、「名門ケネディ家から大統領を出したい」との野心に燃えていました。

でも、退役してすぐのジャックは、政治家として生きるのを嫌いジャーナリストになりますが、ペンでは何も変わらないと虚無感に襲われます。政治家のトップになれば何か変えられると、自分を奮い立たせたのです。

その第一歩は、我が祖国を自分の目でみるための国内視察でした。その中で、ジャックはアメリカ大統領の巨像があるラシュモア山を目にします。歴代大統領の像を見て、自分が政治家として何をするべきかを見いだし、アメリカ全土を回るはずの国内観光は途中で終了となりました。

4-2下院議員になるジャック

29歳で下院議員になるため、1945年6月ボストン市の民主党予備選挙に出馬します。マサチューセッツ州第11選挙区のジム・カーレーが、市長選に立候補し欠員ができたからでした。ジャックの選挙区には、富裕層もいましたが、アイルランドやイタリアの移民、ユダヤ人や黒人もいたのです。各家庭を戸別訪問する選挙運動を行い、アメリカの貧困層の現実を思い知らされます。

ジャックのキャッチフレーズは「新しい世界から指導者を!」で、ニューディール的な立場で演説しました。父の力はもちろん仲間の協力もあり、ジャックは42%の得票を得て下院議員に当選。本戦も楽勝でした。ワシントンで連邦議会の一員となったことで、大統領の地位が夢ではなくなります。

4-3下院議員としての勇姿

貧困層の実情が頭から離れないジャックは、教育・労働委員として政治家人生をはじめます。最初の2年間は勉強の日々。その後、貧困層のため安い住宅を作りたいと、住宅法案を提案します。ガレージや地下室に住む貧困層の住宅状況の酷さをみたからでした。復員軍人たちの帰国で、一層深刻化していたのです。

「復員軍人にボーナスを」という、在郷軍人会を相手に演説をしました。属する民主党は少数で弱く、住宅法案は否決されます。でも、「新人が議場で長老たちを叱る」と、メディアが書きたて民衆からも激励され、そのお陰で住宅法案は通過しました。でも、労働者がストライキをおこし、労働問題も深刻な状態に陥ったのです。

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