安土桃山時代日本の歴史

信長亡き後の一大決戦「賤ヶ岳の戦い」柴田勝家と豊臣秀吉の明暗を分けた戦いとは?

勝家の敗戦と滅亡

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秀吉の帰還により、勝家の軍勢は圧され始め、前田利家の思わぬ離反も重なり、ついには撤退を開始します。こうして賤ヶ岳の戦いの決着はつきましたが、秀吉は勝家を追いつめました。勝家方に付いた武将たちはどうなったのでしょうか。その後の天下の情勢を含めて見ていきましょう。

秀吉の「美濃大返し」と前田利家の離反

秀吉は美濃から賤ヶ岳までの約52㎞の道のりをわずか5時間で踏破するという、驚異的なスピードで戻って来ました。これを「美濃大返し」と言います。

思えば、秀吉が兵を動かす速さはすでに本能寺の変の時にも証明されていたのです。中国地方にいた秀吉は、約200㎞を約10日で戻る「中国大返し」を実行し、電光石火の早業で明智光秀を討ち滅ぼしたのでした。そのことを、盛政は計算に入れていなかったのかもしれません。

秀吉本隊の急襲に対して、盛政は奮闘しましたが、敗れ、落ち延びていきました。

また、同じ頃、勝家の耳に信じられない知らせが飛び込んできました。軍の後方を守っていた前田利家の隊が、突然離脱してしまったというのです。

前田利家の離反と戦いの終結

前田利家は、もともと秀吉の無二の親友とも言える男でした。織田信長の命令によって勝家の与力につけられ、協力していましたが、ここに至ってやはり彼は秀吉を選んだのです。

利家の離脱により、勝家の率いる軍勢は数を減らし、勢いも急速に落ちていきました。秀吉軍の攻撃にも耐えられなくなり、勝家はついに本拠地・北ノ庄城(きたのしょうじょう)への撤退を開始します。

当初、勝家は敵中に斬り込んで討死を遂げようと覚悟を決めていました。しかし、側近の毛受(めんじゅ)兄弟がそれを諌め、北ノ庄城で籠城するようにと勧めたのです。そして兄弟は勝家を逃がし、身代わりとなって壮絶な討死を遂げたのでした。

こうして、賤ヶ岳の戦いは秀吉の勝利に終わったのです。

敗軍の武将たちの末路とその後の情勢

北ノ庄城へ撤退した勝家ですが、ほどなく秀吉軍に包囲されてしまいます。進退窮まった勝家は、お市の方や側近たちと自決して果てました。最期に当たり、「もうお前たちに報いてやれない」と家臣に詫び、落ち延びて欲しいと伝えた彼ですが、残った者たちはほとんどが彼と運命を共にしています。

また、岐阜城で挙兵していた織田信孝も、秀吉に降伏し、ほどなくして切腹となりました。

落ち延びようとした佐久間盛政も捕らわれ、秀吉の前に引き出されます。秀吉は彼を家臣に加えようと誘いますが、盛政はそれを断り、処刑されることを望みました。そして京都市中を引き回された後、処刑されたのです。

こうして反対勢力を一掃した秀吉は、着実に天下取りへの歩みを踏み出します。彼の実力が本物であり、ただの成り上がりではないことを知らしめたのが、賤ヶ岳の戦いでした。

新旧交代を告げた賤ヶ岳の戦い

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織田信長亡き後、古株の家老だった柴田勝家と、頭角を現し始めた豊臣秀吉との対立に端を発した賤ヶ岳の戦いは、織田政権内における新旧交代の時が来たと感じさせる出来事でした。ひいては、織田から豊臣への交代ともなったわけですね。勝家は実直で漢気あふれる武将でしたが、秀吉ほどの小技や巧妙さは持ち合わせていませんでした。やはり、ここは秀吉が勝者となる道がすでに開けていたのかなと感じます。

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