安土桃山時代日本の歴史

信長亡き後の一大決戦「賤ヶ岳の戦い」柴田勝家と豊臣秀吉の明暗を分けた戦いとは?

清洲会議での意見の対立

明智光秀を討った後に問題となったのは、信長の後継者をどうするかということでした。そして、重臣たちが集まって開かれたのが「清洲会議」です。その場に集まったのは、筆頭家老である柴田勝家、殊勲の豊臣秀吉、信長に最も信頼された丹羽長秀(にわながひで)、古参の家臣である池田恒興(いけだつねおき)の四巨頭でした。

信長の跡継ぎとされていた信忠(のぶただ)は、本能寺の変に巻き込まれてすでに亡くなっており、その子供(つまり信長の孫)・三法師(さんぼうし)は、まだ年端もいかない少年だったのです。その一方で、信忠の弟・信孝(のぶたか)はもちろん成人しており、勇猛な人物として知られていました。

秀吉は、血筋としてもっともふさわしいのは三法師だとして、強く推挙します。勝家は、まずは信孝に跡を継いでもらい、三法師のことは成人してから考えてもいいのではと主張し、2つの意見が対立する形となりました。

秀吉への反発心から結束した勝家と信孝

信長の仇を討ったということでだけでも発言力が増していた秀吉の言葉に、丹羽長秀と池田恒興は同調しました。信孝を推したのは勝家だけとなってしまい、結果、跡継ぎは三法師と決まったのです。この時の意見の対立は、勝家と秀吉の間に険悪なムードを生み出してしまいました。

また、信孝も秀吉に対してはいい思いを抱くわけもありません。秀吉が父・信長の亡き後、まるで主権を握ったかのように我が物顔をして政権内を取り仕切ることが、信孝にとっては大きな不満でした。このことで信孝は勝家と結び付きを強め、秀吉との対立の構図はより鮮明なものとなっていったのです。

勝家・秀吉激突!賤ヶ岳の戦い

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清洲会議での意見対立から、勝家と秀吉の関係は悪化の一途をたどります。両者は直接対決を見越して準備をすすめ、ついに賤ヶ岳の戦いで激突することとなりました。勝家の軍勢は猛攻を仕掛けますが、佐久間盛政(さくまもりまさ)が勝家の命令を聞かなかったことから、ほころびが生じていくのです。ここでは、戦いの推移を見ていくことにしましょう。

すべてが秀吉有利に運ぶ状況

対立が深まった勝家と秀吉は、それぞれ、他の武将たちを味方に引き入れるための工作を行い始めました。しかしそれは秀吉の方が一枚上手で、勝家は味方を集めることができず、秀吉有利の状況へと向かっていったのです。

そして天正10(1582)年12月、秀吉は、清洲会議で勝家に譲られていたかつての居城・長浜城を攻撃しました。ここは、勝家の甥・柴田勝豊(しばたかつとよ)が守っていましたが、あっけなく降伏してしまいます。秀吉は続けざまに岐阜城を攻め、三法師の身柄を離さなかった信孝を降伏させ、三法師を手元に取り戻し、勝家を潰しにかかる準備を万端としたのでした。

佐久間盛政の猛攻

天正11(1583)年春、ついに両者が決戦の時を迎えます。勝家は甥の佐久間盛政や与力(よりき/主君の命令により指揮下に入った武将)の前田利家(まえだとしいえ)らを率い、余呉湖を挟んで秀吉軍とにらみ合う形となりました。

この時、美濃(みの/岐阜県)にいた織田信孝が再び秀吉に対して挙兵します。これを知った秀吉は、軍を割いて自分が美濃へと向かいました。

そこをチャンスと見た勝家は、猛将と知られた佐久間盛政に、秀吉方の大岩山砦を攻めるように命じます。「鬼玄蕃(おにげんば)」との異名を取るほどの武将である盛政は、大岩山砦を猛攻で攻め落とし、秀吉方の中川清秀(なかがわきよひで)を討死させました。激戦により、余呉湖の水が血で赤く染まったとまで言われています。

勝家の指示を聞かなかった盛政

勝家は、盛政に対し、「砦を落としたら、ひとまず退け」と言い含めていました。しかし盛政はこの命令に反し、勝利の勢いを駆って敵を追い、深入りしてしまったのです。彼の軍が向かった先が、余呉湖と琵琶湖の間にある賤ヶ岳でした。

賤ヶ岳砦を守っていた桑山重晴(くわやましげはる)は、劣勢と悟るや撤退を始めました。そのため、盛政が賤ヶ岳砦を手に入れるのは確実と思われましたが、この時、琵琶湖にいた丹羽長秀が桑山に加勢し、盛政の隊を押し返し始めたのです。

盛政はよく戦いましたが、彼にとっては思いもよらない事態が待ち受けていました。なんと、秀吉が美濃からすぐに戻って来たのです。

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