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「少年よ、大志を抱け」で知られる「クラーク博士」は何をした人?元予備校講師がわかりやすく解説

札幌農学校の開校とクラーク博士の招聘

1872年、東京の芝にある増上寺の一角を購入し、開拓使仮学校が設置されました。北海道開拓のための人材を育成することが目的です。札幌の街並みが整い始めた1875年、学校は札幌に移転し札幌学校と改称します。

1876年、札幌学校は札幌農学校と改称されました。当初は女学校も併設されていましたが、1877年に廃校となっています。

明治政府は札幌農学校の指導者としてマサチューセッツ農科大学のクラーク博士に白羽の矢を立て、熱心に招聘をおこないました。

クラークを推薦したのは、のちに同志社大学を創設する新島襄です。新島はアメリカ滞在中に日本人留学生としてクラークの授業を受けていました。新島の推薦と日本政府の熱心な説得に応じ、クラークは札幌農学校の教頭となることを承諾します。

来日前のクラーク

日本に来ることになったクラークですが、来日前はどのような活動をしていたのでしょうか。クラークは1826年、マサチューセッツ州に生まれました。その後、ウィンストン神学校に入学します。

1844年、クラークはアマースト大学に入学。化学を専攻しました。大学卒業後、1848年から1850年にかけて母校のウィンストン神学校で科学を教えます。

1850年、化学の勉強を更に深めるため、化学の本場であるドイツのゲッティンゲン大学に留学。化学だけではなく、動物学や植物学についても学びました。

優秀な成績を認められたクラークは帰国後、アマースト大学で応用化学と分析化学の教授となります。その後、マサチューセッツ農科大学で学長となり農学の研究と教育に従事しました。

「イエスを信ずる者の契約」

クラークは札幌農学校に赴任後、教育活動を行う傍ら、キリスト教の布教も熱心に行います。クラーク在任中に直接教えを受けた札幌農学校の1期生たちは、化学などを教わるだけではなく、クラークから英語でキリスト教道徳を教わりました。

その結果、1期生たちは全員キリスト教に入信します。そしてクラークが書いた「イエスを信ずる者の契約」に全員署名しました。

クラークが札幌を離れた後も、札幌農学校にキリスト教の信仰は残ります。クラークと入れ替わりに入学した2期生たちも1期生の熱心な布教を受け、「イエスを信ずる者の契約」に署名しました。

2期生の中には、後に国際連盟の事務次長になる新渡戸稲造や日露戦争の反戦活動で知られるキリスト教徒の内村鑑三などがいます。彼らは後に、函館にいたプロテスタントの宣教師ハリスによって洗礼を授けられました。

クラークの帰国と「少年よ、大志を抱け」

1877年、クラークは札幌農学校教頭の職を辞し、帰国することになりました。帰国前、クラークと札幌農学校の1期生たちは現在の北広島市島松にあった丘に登ります。クラークは愛弟子たちに「Boys, be ambitious(少年よ、野心(大志)を抱け)」と叫んだと伝えられまた。

クラークが札幌を離れて後、札幌農学校で15周年の記念講演が催されます。講演者の一人である1期生の大島正健は、講演の中でクラークの「少年よ、大志を抱け」について触れました。

講演を記録していた人が、その場に居合わせた他の1期生にも確認を取った上で、同窓会誌にこの話を掲載します。他の1期生たちの証言もあわせると、「Boys, be ambitious like this old man」と叫んだとのこと。This old manとは紛れもなくクラーク自身のことですね。異国の地でも自らの信ずる教育を行ったクラークの矜持が見て取れます。

札幌にある代表的なクラーク像

現在、札幌市内には著名な二つのクラーク像があります。一つ目は札幌農学校の後進である北海道大学の構内に設置されているクラークの銅像。正式名称は「ウィリアム.S.クラーク胸像」。北海道大学構内の古川講堂前にあります。

大正15年に田嶼研朗が作成したものですが、初代の胸像は戦争中の金属類回収令によって供出されてしまいました。戦後、残された型を使って二代目の胸像が作製されます。

もう一つは羊ヶ丘展望台にある「丘の上のクラーク」。はるか遠くを指差す全身像で、クラークといえばこちらをイメージする人が多いかもしれません。

1976年に彫刻家の坂坦道が作ったもので、「少年よ、大志を抱け」にちなみ、はるか遠くの理想を指差しているかのようなポーズが有名です。

帰国後は、必ずしも順調に行ではなかったクラーク

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アメリカ帰国後も、クラークは「野心」をもち、夢を追い続けました。帰国後、マサチューセッツ農科大学を辞めたクラークは、学生と学びながら世界一周するという洋上大学を企画します。現代でも画期的なプランですが、応募者が集まらず失敗に終わりました。鉱山経営にも乗り出しますが、こちらも失敗。裁判沙汰となってしまい、クラークを追い詰めました。1886年、クラークは心臓病のためこの世を去ります。59歳でした。

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