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ルイス・キャロルが産んだ奇跡の児童小説『不思議の国のアリス』を徹底解説!

『不思議の国のアリス』は、作者ルイス・キャロルが産んだ、子どものために作られた英国初の楽しい読み物です。聖書やシェークスピアに次ぐベストセラーと称されるこの本は、堅物の数学者だった作者がメルヘンの世界を描いた、好奇心を満たす一冊ともいえるのでは?それでは、『不思議の国のアリス』のメルヘンチックな世界へご案内しましょう。

1.『不思議の国のアリス』とは?

image by PIXTA / 16218897

ルイス・キャロル著『不思議の国のアリス(Alice’s Adventures in Wonderland)』は、1865年にマクミラン社から出版された児童小説です。それまでの子ども向けの本は、教訓を基に書かれたものでした。でも、この本は子どもたちが純粋に笑って読める、知的娯楽として書かれた画期的な本です。当時ベストセラーになったニュースタイルの児童小説は、現在200近い言語に翻訳され世界各国の人々に読まれています。

1-1偶然から誕生した『不思議の国のアリス』

『不思議の国のアリス』は、オックスフォード大学クライスト・チャーチ・カレッジの数学講師だった31歳のキャロルとあるファミリーとの出会いから産まれます。当時の研究員たちは寮に住んで、研究に一生を捧げていました。その学寮長として赴任したのが、アリスのモデルとされる「アリス・プレザンス・リデル」の父ヘンリー・リデルです。

ヘンリーと意気投合したキャロルは、家族とも仲良くなり、よくボートで川を遡り遊びました。キャロルは川の側に住むことが多く、水の流れをみてまどろむのが大好きだったとか。

ボートの上でアリスたち3人の姉妹に即興で聞かせた創作物語が、『不思議の国のアリス』の原型でした。9歳のアリスはこの日に聞いた物語を大変気に入り、キャロルに書き留めておいてほしいと願います。その時手書きした物語は、18,000語で書かれた児童小説となり、1863年2月10日に完成しました。これが『地下の国のアリス』です。翌年11月26日アリスにプレゼントしています。これを35,000語の物語に加筆・編集して出版したのが『不思議の国のアリス』です。

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ルイス・キャロル – Alice’s Adventures Underground (1861).[2], パブリック・ドメイン, リンクによる

ちょっと雑学

原作者のルイス・キャロルは1851年に発明された写真湿板と呼ばれる撮影方法のカメラを入手し、幼い頃から凝り性だった彼は大学の一角にスタジオを作るほど夢中になったようです。

3,000枚もあったとされる写真のモデルは、半数が少女だったとか。アリス・リデルをはじめ撮影された少女たちも、「アリス」の参考にされました。キャロルの写真は趣味の範疇を超えており、近代の芸術写真に影響を及ぼした「ヴィクトリア期の有能な写真家の一人」として認識されています。

1-2挿絵も魅力!『不思議の国のアリス』

『地下の国のアリス』には、キャロルが37の絵を描いています。『不思議の国のアリス』の出版に際し、著名な画家で当時風刺漫画も描いていた「ジョン・テニエル」に依頼しました。アリスのワンダーランドを上手く表現し登場人物の個性を強く引き出しているテニエルの挿絵は、児童書における挿絵の重要性を広く認識させたと高い評価を受けています

キャロルはテニエルの挿絵に対して尊敬の念を抱いており、喧嘩しながらもお互いの良さを引き出せるベストパートナーと思っていたとか。アリス・リデルは、黒髪のおかっぱ頭の少女です。二人は討論を重ねた結果、主人公のアリスは額を出した金髪のロングヘアーの女の子になりました。

現在では世界中の人々に愛される『不思議の国のアリス』は、本にとどまらずディズニー映画を始めエンタメなどさまざまな形で私たちに夢を与えてくれています。

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Christopher Wood, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

ちょっと雑学

挿絵を描いたのは、テニエルだけではありません。テニエルは、『不思議の国のアリス』もその続編で6年後の1871年に発表された『鏡の国のアリス』でも描いています。1890年には『子供部屋のアリス』が、初のカラー版アリスとして出版されました。

カラー印刷法が新しくなった1903年には、テニエルの挿絵に水彩画家のハリー・シーカーが色付けしています。水色のドレスと横縞の靴下というアリスのイメージは、この時に誕生したのです

1907年にイギリスでの著作権が切れて以降は、アーサー・ラッカムやチャールズ・ロビンソンなど、世界各国でアリスの挿絵が描かれました。1990年にディズ・ウォリスは、古典的な色調での色付けをテニエルの挿絵全てに施しています。

2.「ルイス・キャロル」ってどんな人?

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オスカー・ギュスターヴ・レイランダー不明, パブリック・ドメイン, リンクによる

ルイス・キャロルの本名は「チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン」です。キャロルは、ヴィクトリア女王率いる大英帝国下で、激変する社会と時の流れに敏感な疾風怒濤の時代を生きました。児童小説家で著名なキャロルですが、本業は数学者でオックスフォード大学を卒業後は、同校で数学の教師を務める一方、多数の数学の専門書も書いています。彼の人生を簡単にご紹介しましょう。

2-1ルイス・キャロルの誕生

ルイス・キャロルは、1832年1月27日にイングランドのチェシャ州ダースバリの片田舎に、11人の姉弟の3番目で長男として誕生しています。オックスフォードを修了した父チャールズ・ドジソンは、数学の教師でしたが結婚を機に牧師になりました。

12歳でリッチモンドの寄宿制のグラマー・スクールに入学するまで、兄弟と共に家庭で教育されます。彼は吃音症とされており、大人になっても苦しみました。その後、パブリックスクールのラグビー校に進学。数学講師だったR・B・メイヤーは「ラグビー校に赴任して以来、彼の年齢で彼ほど有望な少年をみたことがない」と語ったようです。

2-2青年期のルイス・キャロル

オックスフォード大学のクライスト・チャーチ・カレッジに入学しますが、学寮に入った2日後に母フランシスが脳の病で他界。2年後の「孤独」という詩の中に、この時の悲しみを書いています。この詩は、エドマンド・イェイツの勧めで、彼が主宰する「コミック・タイムズ」に掲載されました。この時に初めて、「ルイス・キャロル」という筆名を使ったとされています。

「ルイス・キャロル」という筆名は、本名の「チャールズ・ラトウィッジ」を、鏡をイメージして反転させ「ラトウィッジ・チャールズ」としラテン語に直し、更に英語に訳したものです。

キャロルの身長は約180cmあるも、重い百日咳で右耳の聴力を失い、肺にも障害を負ったとか。てんかんとの診断をされていますが、「自閉症スペクトラム症」だったようです。信憑性はありませんが、彼は麻薬に手を染めていたとの説もあります。キャロルは社交的で自己顕示欲の強い人でした。物まねや物語を即興で作るなど、ジェスチャーゲームで周囲を楽しませるユニークな一面もあったとか

2-3卒業後のルイス・キャロル

クライスト・チャーチ・カレッジを首席で卒業し、特別研究生に推薦され26年間数学講師として働きます。実は特別研究生とは、聖職者の資格をもち独身を通せば、クライスト・チャーチでの生涯を許される名誉なものです。大学で学士号を取り、学寮官として処遇されます。有能な数学者だった彼は、フォーマルな装いを好み、シルクハットと手袋は常に身に付けていました。

野心家だった彼は、数学講師だけでなく大学の運営や政治にも発言し、写真家や作家などあらゆる分野で才能を発揮しています。1898年1月14日にギルフォードにある姉妹の家で、インフルエンザからの肺炎により65歳の人生を終えました。ギルフォードのマウント・セメタリーに埋葬されています。

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