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ロシア帝国最後の皇帝「ニコライ2世」をわかりやすく解説

ニコライ2世と日本との対立

ヴィッテはこのままいくと日本との対立は避けられないものとなり、この頃不況に見舞われていたロシアに多大な損害を与えると知っていたので日本との融和態勢を見せはじめていきましたが、ニコライ2世は対日強硬派。大津事件の思いもあったのかどうかは知りませんが、朝鮮を手に入れることがこの当時のロシアの悲願でもあったのでどうにかして日本やイギリスに敵対してでも手に入れたいという思いがあったのではないかと思います。

そのまんま日本とロシアの仲は良くなることはなく、1904年に日本が旅順のロシア艦隊に攻撃を加えたことによって日露戦争が勃発。ニコライ2世は「宣戦布告なしだと!神よ、我らを助けたまえ」と述べたというのですが、前評判では完全にロシアの勝利で終わるだろうとされていました。しかし、事態は別の方向に向き始めていったのです。

日露戦争と血の日曜日事件

こうして始まった日露戦争。しかしニコライの予想と前評判とは違い戦況はロシア不利の状態になっていきました。日本の連合艦隊は早々に旅順のロシア艦隊をウラジオストクに追って制海権を獲得しさらには旅順港を占領。奉天まで後退を余儀なくされ、ロシア軍は何とか陸軍主力を温存したものの、奉天からの退却背ざる負えない状態となっています。

さらにニコライ2世の最後の希望だったバルチック艦隊も日本海海戦において海戦史上類を見ないほどの大敗北を喫してしまい、ロシアバルチック艦隊は殲滅されてしまいました。

また日露戦争の結果は思わしくない1905年1月9日には莫大な戦費や戦役に苦しんだ民衆が皇帝への嘆願書を携えてサンクトペテルブルクの冬宮殿前広場にデモ活動を開始、

しかしニコライ2世は兵士にたいして10万の群衆に発砲し3000人の死者を出す大損害を出してしまったのです

いわゆる血の日曜日事件により皇帝が民衆に対して友好的であるという印象が崩れ去り、国民はここからニコライ2世の打倒を目指して活動を行なっていくようになるのです。

ポーツマス条約とロシア第一革命

日露戦争はロシアのイイトコ無しで日本のペースとなっていきましたが、日本側としてもこれ以上の戦争を遂行する資金はありませんでした。そこで、アメリカ合衆国のセオドアルーズベルトが日露両国に講和を持ちかけポーツマス条約が締結。なんとか賠償金の支払いは免れましたが、日本側の有利な形で日露戦争は終わりを迎えました。

しかし、国民の怒りは治りません。日露戦争の最中にはポチョムキンの反乱が勃発。この反乱によってニコライ2世はブルイギン宣言という議会の建設などの創設に応じましたが、それだけでは物足りない民衆をなだめるためにヴィッテは十月宣言をニコライ2世に提出。ニコライ2世は渋りましたが最終的には十月勅書という形でロシア第一革命は終わりを迎えることになりました。

ロシアの混乱とラスプーチン

ヴィッテの奔走によってなんとか革命は抑えることに成功しましたが、ニコライ2世は自由主義に真っ向から対立しており、議会を解散させるなどの強硬的な手段に乗り出していくようになります。

また、1905年からは怪しい僧侶であるラスプーチンを重用。これは皇太子のアレクセイが血友病に悩まされていた時にその祈祷を行った時からの縁からだと言われていますが、ラスプーチンは皇帝一家から我らの友と呼ばれていき、しまいにはニコライ2世に代わって政治を行う始末。

これがロシア帝国崩壊のカウントダウンを早める結果となってしまったのです。

第一次世界大戦と二月革命

1914年6月。オーストリア皇太子が暗殺されるサラエボ事件が起こったことによってロシアはオーストリアに宣戦布告。さらにオーストリアと同盟関係にあったドイツはロシアに宣戦布告をしたことによって第一次世界大戦が幕を開けました。

しかし、ロシアは日本にも苦戦するほどの軍勢しかなく、それに比べてドイツは近代化なされた最新鋭の軍勢。1914年のタンネンベルクの戦いでは3倍の兵力差がありながらも損害20万という途方もない損害を出してしまい大敗北してしまいました。

その結果として東部戦線では圧倒的なドイツペース。1915年にはポーランドを捨てる大退却を余儀なくされ、ロシアの混乱はピークに達してしまいました。

さらに、ニコライ2世が前線に行ったことによって首都のサンクトペテルブルクには敵国ドイツ出身のアレクサンドラ皇后と不人気なラスプーチンが政治を行う状態となってしまい、さらには皇后とラスプーチンが関係を結んでいるとして皇帝の権威はズタボロになっていました。

戦争が起こって3年目の1917年。変わらない戦況と戦争による物資不足によって我慢の限界が来ていたロシアの民衆はついに蜂起。

二月革命が起こることになったのです。

帝国の崩壊と拉致監禁

国際婦人デーであった1917年2月23日(ユリウス暦)。ロシア風の名前に変わったペトログラード(サンクトペテルブルク)では食料配給の改善を求めるデモが起こっていました。

このデモはすぐさま全土に拡大。二月革命という形でロシアの戦争中止とニコライ2世の退位を求める暴動にまで発展することになります。

ニコライ2世はこの暴動を鎮圧しようとしたものの、暴動を抑えるだけの人望はもうなくニコライ2世は1917年3月15日に退位。

こうして300年続いたロマノフ朝は滅亡し、ロシア帝国も滅亡することになったのでした。その後ロシアで誕生した臨時政府によってニコライ2世はシベリア西部のトボリスクに流刑となってしまいます。

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