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明治政府の圧政に立ち上がった民衆たち【秩父事件】を歴史系ライターが解説

椋神社に結集し、ついに武装蜂起!

栗野山会議で決起が決定され、明治17年11月1日、椋神社にて田代栄助をはじめとする秩父困民党が武装蜂起しました。このあたりのくだりは2004年に公開された映画「草の乱」でも詳しく描写されていますが、秩父だけでなく近隣の群馬県や長野県からも参加者が集まったそうです。

田代はこの時、五ヶ条の軍律を決定しています。

 

第一条 私ニ金品ヲ掠奪スル者ハ斬
第二条 女色ヲ犯ス者ハ斬
第三条 酒宴ヲ為シタル者ハ斬
第四条 私ノ遺恨ヲ以テ放火其他乱乱暴ヲ為シタル者ハ斬
第五条 指揮官ノ命令二違背シ私二事ヲ為シタル者ハ斬

引用元 「田代栄助尋問調書」より

 

目的はあくまで高利貸しや役所が持っている書類の抹消であり、一般住民には決して危害を加えるな。とされていますね。この意思統一された動きが事件における秩父困民党の特徴だといえるでしょう。

参加した農民たちの思いとは

この蜂起に参加した農民たちの中にも、自主的に参加した者や、なし崩し的に加わった者もいたことでしょう。しかし自分たちの行動は「世直し的」なものとして誇りを持っているような節も見られるのです。

事件後に捕縛された一般の農民【柴岡熊吉】の尋問調書からの言葉を見てみましょう。

 

「昨今諸物価ハ下落シ秩父郡中ノ人民高利貸ノ為メ非常二困難貧者ハ益極貧ニナリ。高利貸ハ益利欲ヲ達クシ其惨状見ルニ忍ヒス因テ身命捨困民ヲ救フニ尽力スルモママノト決シ田代栄助等卜供二相謀り暴徒ヲ起シタル次第ナリ。

望ハ達シテ高利貸ヲ兜シ貧民ヲ救助シテ後御処分ヲ蒙ムルハ覚語ノ筈ナリ。予秩父郡中ハ埼玉県内第一ノ不便ノ地ナリ此末益高利貸ハ強欲ニシテ良民ヲ苦ムルハ然卜相考へ唯良法ヲ建サセラレン事飽マテ奉願上侯。右様ノ精神ニテ暴徒ノ巨魁トナリクル次第ナリ」

現代訳

「昨今は物価が下落して、秩父の人々は高利貸しのために非常に困窮し極貧となってしまいました。高利貸しが暴利をむさぼって過酷な取り立てをするのを見て、どうしても見るに忍びず身命を棄てて困民を救うために田代栄助らと共謀して暴動を起こした次第です。

その望みを達して高利貸しを倒し、貧民を救った後ならいくらでも処分を受ける覚悟はできております。私たちの秩父郡は埼玉県の中で最も不便な土地であり、これ以上高利貸したちが暴利をむさぼって民衆を苦しめるようなら、なんとか良い策を立てなければと考え、そのような思いで暴徒となった次第です。」

 

借金に苦しみ、困窮にあえいでいる国民が現実にいるのに、国や行政は何の良策も立ててくれない。ならば自分たちで現状を打破し変えていくまで。という気概すら伝わってきそうですね。まるで江戸時代にあった世直し一揆義民たちを彷彿させるような心情が理解できます。

「秩父事件」の経過と、その後の崩壊

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いよいよ武装蜂起した秩父困民党率いる農民たち。しかし単なる暴徒ではありません。彼らの目的は悪徳高利貸しや役所を打ち壊すこと。そして行政の無為無策を世に知らしめることでした。

一般民衆には危害を加えなかった武装集団

11月1の夜、集団を二つに分けた困民党は高利貸しが多く軒を連ねていた小鹿野の町へ向かいます。そして高利貸しを打ちこわし、役所へ乱入して公証簿の焼き捨てを決行したのです。そして荒川を渡り大宮郷(現在の秩父市)へ進出しました。大宮では多くの農民たちが参集し、その数は1万人を超えたとのこと。

さらに警察署や裁判所までも襲撃し、11月2日には荒川河畔で憲兵隊と激突してこれを撃退。大いに気勢が上がりました。

ところが武装集団は高利貸しや官庁などは襲うものの、一般の商家や豪農などは決して手を出さなかったといいます。一時的に軍資金の献納を要求した例はあるのものの、きちんと返す意図を持って預かり証や借用書まで発行していたそうですから、態度は非常に丁重だったことがうかがえるのです。

大宮郷にあった「矢尾」という商家に困民党がやって来て述べた言葉がありますね。

 

「此度世直ヲナシ政治ヲ改革スルニツキ新ク多数ノ人民ヲ囁集セシ訳ナレバ当店ニテ兵食ノ焚出シ方ヲ万端宜シタ顧ム扱テ高利貸営業者ノ如キ不正ノ行ヲナス者ノ家ニアラザレバ破却或ハ焼棄ナスナド決シテ致サズ。

又三島利貸ノ家ヲ焼キタリトモ其隣家二対シ聯カモ損害ヲ加エヌ故各々安堵致サレタシ。

右ノ次第ナレバ当御店ニテハ安心シテ平日ノ如ク見世ヲ張り商業ヲ充分ニナサレタシ。」

現代訳

「今回世直しをし、政治改革をするにあたって多くの民衆が集まってきたわけだが、この店で食べ物の炊き出しをお願いしたいと思う。あなたのところは高利貸しのように不正な行いをする店ではないため、打ちこわしや焼き討ちなどは一切しないことを約束する。

また三島の高利貸しの家を焼いたといっても隣家に対しては少しも損害を加えなかったから安心してほしい。

このような次第なので、あなたの店は安心していつものように商売をして下さい。」

 

この背景には、悪徳高利貸しやそれを野放しにした官庁さえこらしめれば良く、一般の人には手を出さないという義侠心めいたものがあったのではないでしょうか。確かに困民党のトップ田代栄吉はじめ指導者の面々には博徒(いわゆるヤクザ)が多かったというのが特徴でしたし、筋道を通す任侠心が無駄な暴力を抑えたという意味では納得のいくところかも知れません。

ちなみに上州(群馬県)や秩父一帯は、江戸時代から国定忠治など多くの博徒たちを輩出した地域でした。

東京鎮台の正規軍と激突!そして敗走

「負債からの解放」を出発点とした秩父困民党でしたが、武装蜂起することによって次第にその命題が「世直し」へと変わっていきました。また秩父郡役所に置かれた困民党本部も【革命本部】と称するようになりました。世間の耳目を秩父に集め、世論を味方にしようとした節が見受けられますね。秩父事件の本質は「政治闘争」へと形を変えることになりました。それはすなわち国家権力との対決を意味するものだったのです。

ついに国家権力の圧力が彼らに向かうことになりました。11月4日、最新式の兵器を装備した東京鎮台の正規兵が到着。数度にわたる激戦で困民党側に多数の死傷者が出ることになりました。

いっぽう激戦の中、困民党本部も混乱を極め、戦況の情報も錯綜するなか崩壊を始めていきます。その結果、田代栄助はじめ幹部は敗走しますが、困民党の抵抗は収まることはありませんでした。

本部崩壊後、最大の激戦となった金屋の戦いで敗れた困民党は平野部への進出をあきらめて、官側の防備が手薄な十国峠を越えて上州及び信州佐久地方への進出を図ります。なぜならそれらの地域にも負債を抱えた農民が多数おり、その地で再起を図ろうとしたためでした。

困民党の最期とその後

11月5日、新たに菊池貫平を総理にした困民党は150人ほどで秩父を出発。十国峠を越えた頃には300人となり、南佐久郡大日向村へ着くとさらに400人に膨れ上がりました。そしてここでも負債農民を苦しめる高利貸しの打ちこわしが繰り広げられましたそうです。

しかし国家権力の追求は厳しく、早くも11月8日には高崎鎮台兵に捕捉され、現在の長野県小海町のあたりで激戦に及びます。しかし衆寡敵せず敗走。11月9日ついに八ヶ岳山麓の野辺山あたりで壊滅しました。参加者は離散し、ここに秩父困民党は最期を迎えたのでした。

事件の結果、田代栄助らを含む7名に死刑判決が下され、4千人近い者が有罪判決を受けることに。そして参加者たちの家族や親族、そして子孫までも「犯罪者の家族」としてのレッテルを貼られ生きていくことになりました。

この事件に驚愕した明治政府は一連の農民たちの武装蜂起の事実を隠蔽しようとしました。明治専制政府に対する「世直し」の機運が高まることを恐れたからです。しかし近年、歴史的事実を探求する動きによって秩父事件の全貌が明らかになるにつれ、その歴史的評価も高まってきているのが現状ですね。

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