日本の歴史江戸時代

生まれながらの将軍「徳川家光」親の愛に飢えた将軍の生涯をわかりやすく解説

幼い息子・家綱に事後を託して世を去る

慶安3(1650)年、病に倒れた家光は、息子の家綱に将軍職を譲り、翌年には48歳で世を去ります。

家綱はまだこの時11歳。家光にとっては晩年に生まれた待望の嫡男でしたが、ここに至るまでには実に長い道のりがありました。そしてその中で、江戸城の「大奥」がつくられたというわけなのです。いったいどういう理由があったのでしょうか。

女性より男性を好んだ若かりし頃

実は、家光は女性よりも男性を好んでいたようなのです。戦国時代に男色は珍しくないことでしたが、大名たちは男色と子造りは別物と割り切っていました。

ところが、家光は当初、女性にまったく興味を示さなかったようなのです。加えて、正室に迎えた鷹司孝子(たかつかさたかこ)とは「超」がつくほどの不仲でした。

こんなことも要因となり、家光は美しい小姓や若い側近たちばかりを寵愛するようになったのです。

世継ぎ問題に気を揉んだ春日局

家光の男色はかなり本気だったようで、寵愛した家臣が他の小姓と戯れていたことに嫉妬し、手討ちにしてしまったこともありました。また、別のお気に入りの家臣が病気療養中に妻との間に子をもうけたことを怒り、勤務怠慢との名目で改易してしまったということです。女の嫉妬、ではなく、男の嫉妬もまた恐ろしいものでした。

こういうわけですから、家光は30歳を過ぎても子供ができませんでした。

それを誰よりも危惧したのは、他ならぬ乳母・春日局だったのです。

春日局の奔走で創設された大奥

家光にとっては母以上の存在である春日局は、家光に子供ができないことをお家存亡の危機と考えました。そして、江戸中の美女を集めて家光に近づけたのです。中には、男装させた上で近づけたという話もありますが…。ともあれ、こうして女性たちで構成されたハーレム=大奥ができあがったのでした。

そこでようやく家光も女性に興味を持つようになります。そしてやっと生まれた待望の男児が、次の将軍となった家綱でした。その後も綱重(つなしげ)や5代将軍となる綱吉(つなよし)、女子たちなどが次々と生まれ、周囲はようやくほっと胸をなでおろしたのです。

しかし、どうして家光はそこまで女性に興味を示さなかったのでしょうか。もしかすると、幼少期に母の愛に恵まれなかったことで、女性に何らかの不信感を抱いていたのかもしれませんよね。

姉や異母弟を大事にした心優しさ

家光は有能な将軍となりましたが、親の愛情に飢えた悲しい時代も送りました。そのためか、親族の情愛に関しては細やかな部分があり、豊臣秀頼に嫁いだ姉・千姫とはずっと交流を図り、息子の養育を頼んでいます。また、父・秀忠の隠し子だった保科正之(ほしなまさゆき)が弟だと知ると喜び、召し出して重く用いました。切腹を申し付けた弟・忠長に関しても、最後まで行状を改めるようにと説得していたようです。

また、祖父・家康に関しては非常に大きな尊敬の念を抱いていました。家康の鶴の一声がなければ、家光の将軍の座も危なかったわけですから、彼は祖父をそれこそ神のようにあがめたのです。日光東照宮を豪華に修築したのも彼ですし、そこへの参拝を生涯に10度も行いました。これは歴代将軍の中でも異例の多さで、家康の墓所のそばにつくった自分の墓所である輪王寺大猷院(りんのうじたいゆういん)は、家光の遺言により家康のものよりも華美さを抑えたものとなったほどです。

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