日本の歴史江戸時代

生まれながらの将軍「徳川家光」親の愛に飢えた将軍の生涯をわかりやすく解説

「生まれながらの将軍」と強気の宣言

寛永9(1632)年、父・秀忠が亡くなりました。そして家光の手に幕府のすべてが委ねられることとなったのです。

居並ぶ大名たちを前にして、家光は高らかにこう宣言しました。

「私は生まれながらの将軍である」

そして、

「祖父は皆の力を借りて天下を取り、父は皆の同僚から将軍の座についた。しかし、私は生まれながらの将軍。だから皆は私の家臣に過ぎない」

と続け、

「もしこれに不満があるならば、私が直々に相手となろう。領地に戻って良く考えるといい」

と自信たっぷりに言い放ったのです。

この威厳の前に、大名たちは平伏するしかありませんでした。

将軍の権威強化のために次々と仕組みを定める

家光による大名統制の主たる施策は、武家諸法度(ぶけしょはっと)の改訂でした。元々武家諸法度は父・秀忠が発布し、大名や旗本を統制する決まりでしたが、家光はそれに参勤交代の義務づけを付け加えたのです。

参勤交代は、大名たちが1年おきに領地から江戸に出仕する務めのことでしたが、これが想像以上に大名たちの負担となりました。正室と世継ぎは江戸屋敷に滞在することが義務付けられて名目上人質となり、参勤交代の往復費用や滞在費用はすべて自分持ちだったため、藩によっては現代で言えば何億という費用が必要になったそうです。

これには家光の狙いがあり、将軍と大名の主従関係をはっきりさせること、参勤交代による多くの費用を課すことで大名の国力を削ぐことがありました。そして、彼の思惑通り、大名たちは幕府に刃向かう力を持てなくなっていったのです。

弟に自刃を命じる

また、家光は問題のあった大名を取り潰す「改易(かいえき)」も行いました。対象となった大名家の中には、名門の加藤家も含まれていたのです。熊本城を築城した名将・加藤清正の息子・忠広が当主となっていましたが、家臣団を統率できないということが理由でした。この後も、内紛によるお家騒動が起きた大名家には、度々改易処分が下されることとなります。

改易の対象となるのには、実の弟も例外ではありませんでした。家光の弟で幼い頃は利発だった忠長は、成長すると不品行が目立つようになっていきます。何かにつけ庇っていた母・江が亡くなるとさらにそれが悪化し、家臣を勝手に手打ちにしたり、父・秀忠に対し「大坂城か100万石をください」などと難癖をつけるようになったりしたのです。

これには家光も目をつぶることができず、忠長を蟄居処分としました。そして父が亡くなると、自刃を命じたのです。

鎖国の完成

江戸時代に起きた最大級の出来事と言えば、「鎖国」です。江戸末期に黒船が来航して開国するまでの長い間、日本は鎖国となったわけですが、その体制を完成させたのは家光でした。というのも、島原の乱が起きて鎮圧に相当の苦労をし、キリスト教勢力の結集力に危機感を覚えたからなのです。このため、ポルトガルとは断交となり、オランダ商館を長崎の出島に移し、鎖国が完成したのでした。

とはいえ、治世末期には寛永の大飢饉が起き、大陸では明から清への王朝交代が行われ、家光は内外共に政策に頭を悩ませることになりました。

大奥の創設のきっかけとなる

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家光が亡くなった際、跡継ぎの息子・家綱(いえつな)はまだ少年でした。というのも、家光になかなか子供ができなかったからです。実は、家光の嗜好が大奥創設のきっかけとなったのでした。それはいったいどういうことだったのでしょうか。

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