日本の歴史鎌倉時代

日蓮宗を開いた「日蓮」とはどんな人?その生涯について元予備校講師がわかりやすく解説

身延(みのぶ)山入山と池上での入滅

鎌倉を去った日蓮は、弟子の提案に従い甲斐国の御家人である波木井実長の所領に身を寄せました。日蓮は実長の所領にあった身延山に入り、法華経についての研究を進めます。なお、のちに身延山には日蓮の霊廟が設けられ久遠寺が建立されました。

1279年、駿河国の日蓮宗の信者たちが勢力を増し、現地の天台宗寺院と争いとなります。天台宗側は幕府に提訴。信者たちは鎌倉に護送されます。鎌倉では信者たちに激しい拷問が加えられましたが、信仰を捨てるものはいませんでした。幕府は裁判を打ち切り、信徒たちを処刑。これを熱原の法難といいます。

このころ、日蓮は体調を崩していました。資料などによれば胃腸系の病気を患っていたようです。1282年、日蓮の弟子たちは日蓮を寒冷な身延から常陸国の温泉のある場所に移そうとしました。

しかし、旅の途中、武蔵国にあった池上兄弟の屋敷にたどり着いたとき、日蓮の体力は限界を迎えます。1282年、日蓮は6人の弟子を六老僧と定めました。1282年10月13日、日蓮は多くの弟子に看取られながら池上兄弟の屋敷で死去します。享年60歳。

教学研究に余念なく、死の間際まで法華経について研鑽をつづけた碩学

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日蓮は激しい他宗批判や度重なる法難にスポットライトが当たることが多い人物です。しかし、日蓮はそれだけの人ではないように思います。彼が、多くの他宗信者と問答し論争に勝利できたのは彼が誰よりも仏教について精通していたからではないでしょうか。比叡山延暦寺で阿闍梨の称号を得るほどの学識があったればこそ、自らの主張に絶対的な自信を持っていたのでしょう。実力に裏付けられた自身は他者を圧倒して当然ではないでしょうか。

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