日本の歴史鎌倉時代

日蓮宗を開いた「日蓮」とはどんな人?その生涯について元予備校講師がわかりやすく解説

伊豆への流罪と赦免

日蓮の鎌倉帰還を喜ばなかった人物がいました。六代執権の北条長時です。長時は鎌倉に舞い戻った日蓮を捕縛。現在の静岡県にあたる伊豆国伊東に流罪としました。日蓮は船で伊豆に運ばれ、海岸の岩の上に放置されます。これを見かけた伊豆の漁師船守弥三郎は日蓮を保護しました。

流在中の日蓮を監視するよう幕府に命じられたのが、伊東の地頭であった伊東祐光です。祐光ははじめ、念仏を信仰していました。しかし、重い病にかかった時、念仏信仰を捨てる誓いを立て日蓮の祈祷により救われます。

この経験から、祐光は念仏信仰を捨て、日蓮宗に帰依しました。伊豆での流罪生活はおよそ2年に及びます。

1263年、日蓮は赦免され伊豆から鎌倉に戻りました。赦免を決定したのは五代目執権で北条家の実権を握っていた時頼だったようです。

小松原の法難

1264年、日蓮は安房に残してきた母が重病であるとの知らせを受けます。知らせを聞いた日蓮は母の看病をするため、地元の東条郷に帰ってきました。

しかし、東条郷の地頭である東条景信は念仏信仰を批判する日蓮を目の敵として狙ったことがある人物です。東条景信は日蓮と日蓮に従う弟子たちを襲撃するチャンスを狙っていました。

11月11日、移動中の日蓮一行が小松原に差し掛かった時、東条景信と部下たちはいっせいに日蓮一行に襲い掛かります。日蓮は頭に傷を受け、左手を骨折するという重傷を負いました。また、日蓮の弟子の一人が東条勢によって殺害されてしまいます。

命が助かった日蓮は、母の看病を行い、母の死をみとりました。その後、しばらく日蓮は房総の地にとどまって人々に布教をおこない1264年の末には鎌倉に戻ったようです。

龍の口(竜の口)の法難

1268年、蒙古のフビライ=ハンの国書が大宰府に到着します。フビライ=ハンの国書は、日本に蒙古との国交や通商を求めつつも、日本が蒙古の申し出を断ったら戦争になるかもしれないと脅す内容を含む強圧的なものでした。

蒙古の国書が届いたと知った日蓮は「立正安国論」の予言が現実になる前に、為政者は進行を改めるべきだと強く主張。公開討論を要求します。この時の書状の中に「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」という「四箇格言」が含まれていました。

幕府は日蓮の求めに応じるどころか、日蓮の行動を危険なものと考え、弾圧に踏み切ります。1271年、幕府は日蓮を逮捕。侍所所司の平頼綱は日蓮を尋問しますが、日蓮は従来の主張を繰り返しました。

頼綱は日蓮の処刑を決断。武士たちに日蓮を龍の口(竜の口)に連行させ、首を討たせようとします。その時、江の島の方から強烈な光が出現し、日蓮の処刑を妨げました。これにより、日蓮は処刑を免れ、佐渡へ追放されます。この弾圧を龍の口(竜の口)の法難といいました

佐渡への流罪とその後

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龍の口の法難を逃れた日蓮は、幕府の意向により佐渡ヶ島に流罪とされました。流罪が決定するまでの1か月間、幕府は日蓮宗の信者たちを徹底的に弾圧。教団を壊滅させようとします。佐渡流罪から帰った日蓮は、鎌倉幕府に対し最後の訴えを試みますが棄却されました。その後、日蓮は身延山に入山し法華経の研究に努めます。

佐渡滞在中の日蓮と『立正安国論』の「証明」

日蓮の佐渡での流罪先は塚原三昧堂という場所でした。塚原とは、文字通り塚(墓)のある野原、つまり墓地ですね。その墓地にある粗末な小屋が塚原三昧堂でした。

この地に流された日蓮は佐渡や北陸などの僧侶数百人と問答を繰り広げます。これを、塚原問答といいました。塚原に集った念仏宗や禅宗の僧侶たちは、日蓮との問答を行いましたがことごとく日蓮に敗退します。中には、自分の宗派を捨て日蓮に帰依するものまで現れました。

日蓮は先に提出した『立正安国論』の中で幕府が念仏宗などの信仰を捨てなければ、内乱が起きると予言しています。1272年、鎌倉と京都で二月騒動とよばれる内紛が起きました。時の執権北条時宗の異母兄や北条一門の有力人物が幕府によって粛清された事件です。

内乱を言い当てた日蓮のもう一つの預言である蒙古襲来も現実のものとなろうとしていました

日蓮の赦免

1274年、執権北条時宗は日蓮の赦免を決定します。日蓮の佐渡流罪は根拠がないものであり、日蓮の予言した蒙古襲来が現実のものとなろうとしていたからでした。鎌倉に戻った日蓮は平頼綱と面会します。

平頼綱は蒙古襲来の時期を日蓮に尋ねました。加えて、頼綱は日蓮に寺院を寄進するので蒙古襲来の調伏祈祷を依頼します。しかし、日蓮は幕府が念仏宗などに帰依しているほうが問題であり、それが受け入れられないなら調伏祈祷などは行えないと拒否しました。

日蓮は幕府に対し3度も念仏宗などへの帰依を止めるべきだと訴えましたが、結局取り上げられなかったことを踏まえ、幕府への働きかけは無益だと判断。鎌倉を去りました

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