3.【無敵の庄内藩】その強さの秘密とは?
新政府軍を相手に果敢に戦い連勝を重ねていった庄内藩。その強さは誰もが認めるところでしたが、単に「兵が強い」というだけではなかった部分もあります。庄内藩兵の強さの秘密について解説していきましょう。
3-1.優れた装備と豪商本間家からのバックアップ
かつて庄内藩が財政危機に陥った際に、藩を救った本間家の存在が大きいでしょう。「日本最大の地主」として称され、戊辰戦争の折にも多額の軍資金を提供していました。また本間家だけでなく酒井家を慕う商人や豪農も多かったといいます。
それらの軍資金(現在の価値で数十億円)でスナイドル銃やシャープス銃、各種火砲など最新鋭の軍備を賄い、他の東北諸藩がいまだ火縄銃が一般的だったのに対し、圧倒的な軍事力を誇っていました。新政府軍が使っていた新式銃にも引けを取らなかったといいます。
また庄内藩の降伏後、領民たちは酒井家が他へ移ることに反対する阻止運動を起こしました。薩摩に掛け合うなどして70万両もの賠償金を納めればいいとなったのです。
本間家を中心として領民たちが寄付を募り、何とか30万両を集めたおかげで、どうにか酒井家は庄内の地へ戻ることができました。
3-2.卓越した戦術家【酒井玄蕃】の存在
不明 – 『ビジュアル幕末1000人』世界文化社, パブリック・ドメイン, リンクによる
膠着した秋田戦線で雄物川を渡り、新政府軍を挟み撃ちで敗走させた指揮官こそが「鬼玄蕃」と異名を取る藩の中老だった酒井玄蕃(げんば)でした。
玄蕃はこの時若干25歳。北斗七星を配した彼の第2大隊旗「破軍星旗」を見るだけで敵兵が逃げだしたという逸話もありますね。
風邪をこじらせて重篤な状態でありながら、輿に乗って鬼気迫る指揮ぶりで味方を鼓舞し、ついに敵を打ち破ったといわれていますし、捕虜にした少年兵に帰りの路銀を渡して親元へ帰るように諭したり、とにかく逸話には事欠きません。
また酒井玄蕃以外にも、庄内藩には有能な指揮官が多く、日々鍛錬を怠らなかった藩兵たちの精強ぶりと相まって、まさに無敵の軍隊となっていたのです。
3-3.多くの部下が慕った玄蕃の人間性とは?
玄蕃は敵を恐れさせる剛の者でありながら、優しさも併せ持った人間性豊かな人柄だったのでしょう。庄内藩には約4千の兵力があったといわれていますが、その半分が農民や町人だったそうです。
玄蕃の素晴らしい人間性に魅了された人も多かったのでしょうね。
戊辰戦争の後、玄蕃は仇敵であったはずの西郷隆盛を鹿児島に訪ねています。そこで西郷の人間性に触れた玄蕃は、西郷の師学校に庄内藩の有望な少年を送り込むなどしており、戦いのその先にある大切なものをきちんと見据えていたのかも知れませんね。
玄蕃は戊辰戦争からわずか8年後の34歳でこの世を去っています。
3-4.自由闊達な思想を育んだ庄内藩の教育
庄内藩が人材育成に力を注いだからこそ、その軍隊もまた強かったといえるでしょう。1805年に開設された藩校「致道館」は他藩に比べて一風変わった教育方針だったといいます。
幕府の肝いりで全国的に朱子学が奨励されていたにもかかわらず、庄内藩では荻生徂徠が提唱した徂徠学を藩学としていました。古い書を直接続むことによって、後世の註釈にとらわれずに孔子の教えを直接研究しようとする学問のことで、藩政改革を成功に導く基礎になったといいます。
また決して詰め込み教育をさせず、身の丈に合った学びを奨励し、自らで学ぶことを重視しました。かなり自主学習に重きを置いていたのですね。
自分で物事を考え判断できる素養は藩士たちに深く根付き、戦場における様々な状況の中で活用されたのでしょう。言われるがままに戦うだけの他藩の兵とは違う資質を庄内兵は持っていたのでしょう。
3-5.領民からの様々な援助
豪商本間家をはじめとする商人や豪農たちの経済的バックアップだけではありません。庄内藩で暮らす庶民たちも積極的に戦いを支援したといいます。
たとえ軍資金を提供できない貧しい庶民であっても、砦作りや物資の運搬、食糧の供出はできますし、自ら志願して兵士となり戦場で戦った者も多くいました。庄内藩4千のうち、半分が農兵だったとされるゆえんです。
かたや同じ列藩同盟の会津藩では、庶民たちはあまり戦いに関心を持たず、藩に対してもあまり協力的ではなかったようですね。
ちなみに幕末における庄内藩の推定人口は約15万人程度ですが、その数字以上に領民たちのバックアップがあったものと考えられますね。藩主の酒井家が善政を敷き、領民たちがそれに応える形だったのでしょう。