幕末日本の歴史江戸時代

5分でわかる庄内藩の歴史ー幕末最強だった?その理由をわかりやすく解説

2-2.奥羽越列藩同盟結成へ

しかし薩摩藩江戸藩邸への焼討ちを誰が決行するのか?そこで当時、江戸の市中警護を担当していた庄内藩に白羽の矢が立てられたのです。

庄内藩はあくまで命令通り忠実に焼討ちを決行し、この事件を契機に新政府と旧幕府の関係が決裂。鳥羽伏見の戦いが起こることになりました。この後新政府軍は連戦連勝を重ね、ついに江戸城も開城。一連の戦いは終息に向かうかに見えました。

ところが新政府によって会津藩は朝敵とされ、庄内藩もまた薩摩藩邸焼討ちの咎を受けて討伐される羽目に陥ったのです。単に庄内藩は命令に従っただけであり、討伐される謂れはありません。

会津・庄内藩を救うべく東北諸藩が望んだ嘆願も叶わず、ついに戦いは不可避なものになったのです。慶応4年(1868年)5月、東北諸藩を中心とする34藩から成る奥羽越列藩同盟が結成されました。

2-3.崩壊の危機を迎えた列藩同盟

1868年、圧倒的な戦力と装備で進軍を開始した新政府軍は、早くも5月に越後長岡藩へ攻撃を加え、6月には列藩同盟軍は白河から撤退を余儀なくされます。

さらに陸奥棚倉城、磐城平城が相次いで落城すると列藩同盟は早くも瓦解の危機に瀕しました。また三春藩や秋田藩が裏切って新政府側に付くなど崩壊同然の状況となったのです。

二本松城少年隊や会津白虎隊の悲劇など、年端もいかぬ子供までが動員され、戦火の中で命を落としていきました。藩や郷土を守りたい一心で散っていったわけですね。

2-4.機動防御を駆使して連戦を重ねる庄内藩

その頃、日本海側に位置する庄内藩は守るのではなく攻めの防御に切り替えました。柔軟な機動攻勢で転戦を始めたのです。南部戦線では4月に清川口の戦いで勝利し、その勢いをもって新政府軍の先導を務めた天童藩を打ち破ります。

今度は反転して仙台藩兵らと共に横手川へ向かって進撃。同盟を裏切った秋田藩を打ち破りました。さらに進軍した庄内藩兵は雄物川を挟んで新政府軍本陣と向き合います。

一時は膠着状態となるも迂回した部隊が川を渡河。新政府軍を挟み撃ちにしました。たまらず新政府軍は敗走し、角館へ逃げ戻りました。

また日本海側沿いを北上した別動隊も本庄、亀田、久保田と破竹の進撃を続け、秋田藩領の3/2まで制圧しました。

2-5.庄内藩を除く東北諸藩がほとんど降伏

8月下旬、またもや反転した庄内藩兵は今度は新潟方面からやってきた新政府軍の攻撃を鼠ヶ関で受け止め、さらに跳ね返して撃退したのです。

このように各地で連戦連勝を重ね、無敗を誇った庄内藩。9月には周辺諸藩がほとんど降伏するも庄内藩だけは頑張り続けていました。9月22日に会津藩が降伏するに及び、さしもの庄内藩も戦い続けることはできなくなりました。

なぜなら、唯一残った庄内藩にとって戦う意味がなくなりましたし、各地から新手の新政府軍が庄内へ向けて大挙押し寄せることが明らかだったからです。

2-6.さしもの庄内藩も降伏。しかし寛大な処置が

9/26日、戦う意味がなくなったと判断した庄内藩は新政府へ降伏。新政府軍が鶴ヶ岡城へ進駐するに及んで庄内藩にとっての戊辰戦争は終わりました。最後まで敵兵を領内に一歩も入れさせず、一度も負けることなく降伏したのです。

しかし敗者にとって過酷な運命が待ち受けているはず。と思いきや、その処置はいたって寛大なものだったのです。藩主忠篤こそ謹慎処分となりましたが、弟の忠宝が石高を12万石に減らされただけで会津へ移転し、翌年には磐城平へ転封。なんとさらに翌年には再び庄内の地へ復帰しているのです。

新政府から同じように目の仇にされた会津藩とはまったく違う処遇でした。ちなみに会津藩は降伏後、領地をすべて没収された揚げ句に現在の青森県下北半島にある斗南藩へ追いやられ、過酷な自然条件の中で苦汁を舐めました。

なぜ庄内藩にのみ寛大な処置が下ったのか?考えられる二つの理由

北海道へ移った旧幕府勢力がまだ健在だったこと。早く戦後処理を済ますべきでもあるし、まだ余力を残している庄内藩を追い込んで「窮鼠猫を噛む」という状況にさせたくなかったこと。

元はといえば徳川を挑発するために仕組んだ罠で戊辰戦争が始まったこと。焼き討ちに関しても庄内藩は命令に従っただけであり、「謂れの無い討伐」をするのは薩摩としてもばつが悪かったこと。

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明石則実